他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

メスはあまり喋らないらしい

餅がお椀何杯分の米粒を含有しているのか想像するとぞっとするので、何も考えないようにしている。拾った財布の中身がいったいいくらなのか想像せずに、そっと無言で交番に届ける行為に似ている。拾った財布を交番に届けた事はないのだが。駅改札のチャージ機に忘れられていたそれなりまあまあのお財布を駅員にお届け出した事がある程度だ。そういえばあれはきちんと持ち主に帰ったのだろうか。女性ものだったから中身を開けるのは躊躇するが、男物だからと言って気軽に中身をオープンできるかと言えばそれはまた別の話だろう。女性ものの方が気楽に開けられるという人もいるはずだ。私はどちらも開封に気が進まない。……何の話だ? いつの間にか家族に増えていたインコと遊んでいた。正直動物は好きではないのだが、母弟が愛玩している事もあるし、なんかこう、家庭内でまで無理して嗜癖を押し通して変な空気になるのも嫌だし、ものすごい頻度で私の行動範囲に被ってくるので、これはもうさっさと仲良くなって私の方が受け入れて楽になってしまった方がいいなと判断したためである。離婚した親が突然再婚してお家に知らない大人が家族として増え年齢も満足に行かないため唯々諾々と受け入れるしかない連れ子の気分は多分こんなものなのだろうと母に言ったら変な顔をしていた。変な空気にしないために頑張ってみたところ、変な顔を招いてしまった。因果は変なところで繋がり巡っているものだ。実際取り合い始めてみると事前に想像していたほど面倒なものでもない。でっかい鳥でもなくちっこいインコなので生物としての圧迫感が薄い、のだろう。多分。分からん。指にとめた時の重量感とか、食い込む鉤爪の肉を抉る感じとか。暖かく遮蔽感があるので落ち着くのであろう私のうなじに髪の毛に紛れて潜り込んでいる時に伝わる、腹の異常な生物としての熱(カロリー)。生き物って真面目に向き合うと生物なのだなと気づいた。動物園のふれあいコーナーでリスを撫でてみると、毛の硬さや齧歯類の体温が分かるのだろう。そう考えると、頭の中に入っている動物の知識は想像上の動物に関するものであって、地に足ついたものではないのだなと思う。今日だけで4回くらいウンコされた。水気が多くとろとろしており、鳥のウンコかくやという感じだ。弟が小さかった時にゲロした時も、ただ温かいだけの水流みたいなものを浴びた事があるが、あれを思い出した。ウンコされた後のじゃんけんには滅法強かった。

over the clock

神社で合図の太鼓を聞いていた。なんとなく節目の言葉を言うのが嫌なので、「おはようございますおはようございます」と母弟に繰り返していた。実家の近所にある神社で0:00を迎えるのが慣習になっている。もう数年やっているので、やらない方が気持ち悪い。なのでやっている。去年何円入れたのかは忘れたが、今年は財布の中身的に5円で勘弁してもらった。額面ではない、信心である。顔ではない、性格である。無論、両者並び立った方がいいのは間違いないところではあるが。神社のでっかい鈴と縄を見ると、バナナマンのコント『different container』を思い出す。その中に「サオ取りタマ残しって、神社か」という旨のツッコミがあるのだが、あれを思い出してしまった。開幕早々めちゃくちゃに不信心砲をぶちかましていた。御神酒はもらわない。なぜなら飲めないからだ。100円をそっと置いて、適当に籤をとった。おみくじはなんだかんだ毎年引いている。正直2日の時点で内容を忘れているのだが、今年の分は読みようによっては致命的に人生に影響を与える内容が隅から隅まで盛り沢山であり、「ハッハッハこんなものあくまで信じるか信じないかの問題であって、真面目に取り合うべきものではないんだよ」と笑い飛ばすにはあまりにも今の境遇に対して一言仰っていた。しかも、その内容をどちらに読むのか、どう読むのか読むべきかが全く分からない。あくまで道はここにあってお前が思っているそれが道なのだと示しているのだけれど、さてそこのどれに足を踏み出すべきなのか、最後の一欠片だけが欠けた美しいパズルを渡されたようだ。そこだけは、自分で絵筆をとって仕上げなければならない。点睛だけを待ち望む画龍がそこにはあった。正直な話、うわあ、と思った。背中を押してくれるでもない、もやもやと具体的でなく咀嚼にさえ困るような霊体でもなく、それなりの実体を伴った上でそっと背後を取られるような、変な汗が出て生の写実性が増してしまうタイプのものを引いてしまった。たまに取り出して自分を戒めなければ、他に外部審議機構が何もない私の生活にひとつだけ画鋲を刺しておくために、財布の隠しポケットの中にそっと忍ばせておく事にした。どこを向くのも嫌になったら、これを見てさらに途方に暮れるためのツールにしたい。人は最後に主観が介在しなければならないのだと。帰りに食ったピザまんに、ちゃんとチーズが入っているのを視認できた。happy new year…

受け流し目

仲のいいやつ(女)が年明けのすぐ後にお茶でもしねーかと誘って来て、やつは異常に心の振幅が合う稀有な人間なので二つ返事で快諾して3日後にメールを返したのだが、さすがに両者いい年でもあるしどこかそれなりの喫茶店かどこかにでも読んでくれるのかと思ったら、まさかの最寄りド地方デパート上階のフードコートを指定してきた。私は構わないが、お前は本当にそれでいいのかと詰問したくなるような埃っぽくイモい場所であり、おまけに一番ナウい店舗が最近撤退したばかりだという。中高生が勉強しに来ているのがちらほら見え、子連れのおじいちゃんおばあちゃんが目立つ絶妙に地方感を滲み出させている地方オブ地方なスポットである。まさか先方からあの場所を指定してくるとは、いや、まあ、可能性としてはかなり濃厚に残っている。というのも、高校生だった当時、やつは私とは別の高校に進学したのだが、それなりの頻度で会って雑談をする機会を積極的に持っていた。その会合開催場所が、そこのフードコートだったのだ。午後1時に会ってからずっとただひたすら喋り続け、午後8時に帰るという何の中身もない、本当に純粋な雑談をしていた。愚にもつかない事からとても口にはのぼせないほどアレな内容まで、とりどり様々喧々諤々していた。あちらから出してくる情報のインパクトの方が強烈なので、ほとんどそっちの内容しか覚えていないのだが……。とりあえず、カレンダーをめくってすぐの予定が入った。その後はしばらくまた何にもないので、しばらく噛み続けるガムにさせてもらいたい。一日の時間を棒グラフみたいに表現して、この時間は何をした、この時間は何をした、といちいち塗りつぶしてラベルをつけて可視化すると、自分の一日はものすごくモノな事になるだろうなと思って、怖いので考えるのをやめた。モノは単一という意味の方のモノである。前向きな内容のコンテンツに触れているととってもしょんぼりするのだが、そっちの方が多い。鏡餅は多分多段の方が多いが、それと同じくらい多いだろう。前を向くでもなく後ろを向くでもなく、横を向いて横にいる何かしらを見つめ続けて、どれくらいの距離を歩き続けて歩いて来たのか、ふと気になって後ろを振り向いた時に分かるような、そんな進行の仕方で生きていきたいものだが、背中を小突いてくるものであったり前方から瘴気を流して意識を阻害してくるものであったり、横を見続けている事をどうにも許してくれない。目が横についていればよかったのだろうか。

流しそうめん直滑降

実家に帰ると、何をすればいいのか分からない。弟に求められるがままに遊んで付き合っているとなんとなく日が終わっている。私が終わっている。今日は、なんかやっといた方がいいんじゃないかと頭の片隅で存在感を放っていながらもそっと目を逸らしていた事に手を触れてみたところ、完全に惨敗したので、もう嫌になってゆるやかな昼寝をした。不必要な睡眠をすると、一日の終わりに布団に就く時に「あ、睡眠の質が悪くなるわこれは悪くなるわ最悪〜」と思わざるを得なくなる胸糞の悪さが頭の中で白んだ倦怠感が粘性を持った朝靄のように湧き出してくるので好きである。きちんと生きなければいけない人生の時間を棒に振りいい加減な生を送る瞬間に「ふへへ」という卑屈な喜びが鎌首をもたげてくる。夜空を見上げる超高性能望遠鏡がそこにあるのに、うまい棒の真ん中に空いているガッタガタの穴を通して空を見る適当な感じがしっくりくる。そこに補導された道があって、そこを歩く方が絶対楽なのに、なんとなく植栽の中を踏み込んで歩いてしまうような感じ。何も考えずに、あるいは何の目標も持たずにするすると、自重で丼から溢れていくうどんやそうめんのように流されるままに、しかし流しそうめんのように進む道は譲らず、カレーうどんのように自らの色を振り撒いてどこかに痕跡を残しながら麺類である事を保ち続けるにはどうすればよいのだろうか。自分の事を麺類で例えると何を言っているのかよく分からなくなった。麺類の中では、カレーうどんは滅茶苦茶に自己主張が強い方のパーソナリティを有していると思っている。鴨南蛮は斜に構えてハイカラな感じだろう。だって南蛮だもの。釜揚げうどんとかそうめんとか、絶対ストイックだよ。スパゲッティは総じて人生楽しそうだ。とは言え、全てのイタリア人が楽しそうという訳ではないという事を実例を以って知っているので、一概にこれがこうとは言わないでおきたいものだが、なんかバンドルで用意してまとめてしまうと事態が片付いて安心してしまいたくなってそうしてしまう。自分なりにタグつけ管理して、触れて来たものに対して私なりの評価をしていますよ、何かしらの役目を果たしていますよ、というポーズのためにやっているのかもしれない。これどう? と目の前に差し出されたものにコメントして、と言われても、どう言えば、どんな事を言えば求められている内容として水準を満たした事になるのか不安でえ、え〜、となる。

ジャガイモはコンタクトレンズをつける

自分で作った飯じゃない飯を食べていると、帰省したなと思う。母が料理をしている間に弟の相手をしているので、まあ家事をしているのと時間の使い方は似ていると言ってもいいのかもしれない。全く見慣れないボードゲーム2種が家に増えていた。サイのヒーローを高層に連れていくためにひたすらアパートメントを高くするゲームと、瞬時の情報処理能力を問われるゲームだった。サイのゲームの方は、割と面白い。映像でたまにトランプをタワーに積み上げていくシーンを見るが、あんな感じで建物が少しずつ高みに至っていくので数字が高くなればなるほど圧巻である。家庭内最高記録は13階だ。同梱のゲームブックが日英独で書かれていて、原産国はドイツらしいのでドイツ語で読んで英語で読んで日本語を読んで翻訳の具合を見てみたのだが、最近ドイツ語→日本語の翻訳が異常に上手い人間の本に接する機会を持ちまくっているため、この翻訳はおかしいだろとかこの翻訳は日本語として生硬に過ぎてもっと改善の余地があるだろうとか、そもそもここの翻訳合ってるのか……? と疑問になる箇所が出て来てしまったりして、掘り下げなければよかったと思った。ドイツ語のテンションで書かれた場所を字面通り日本語に移すと、それはどうしようもなく違和感が生まれる場所が出てくる。確かにルールさえ分かってしまえば細かいところの翻訳なんて気にしなくていい場面ではあるのだが、なんかこう気になってしまうので気にした。ドイツ語は一単語が長過ぎてウケる。情報処理系の方は、即座に反応するのが滅茶苦茶に苦手なのでボロクソに負けた。座して脳内のガラクタを満足いくように組み上げるのが好きだ。スーパーに連れて行かれた。特段やる事がなかったし、健全な書店しかなくエロ漫画がないので絵本コーナーに行ってめぼしいものをペラペラ読んでいた。絵本は今見ても面白いものは面白い。『ねずみくんのチョッキ』を久しぶりに見ると、その余白の使い方にビビった。心が戦慄した。はぁ? と思った。表紙のヌキ方がものすごいし、本文中の絵・文章における余白の設け方もものすごい。漆黒の宇宙空間に銀河系が浮かんでいるような感覚があった。微妙なバランス感覚がそこにはあった。ヨシタケシンスケの絵本を読んでいて、これはコントだなすごくいい構成で中身で、と思いながら、数冊の末尾に突入するに従って、泣きそうになっていた。全くのノーガードに飛び込んで来たパンチに呻く瞬間に、何か見つけた気がする。

時代の濡れ衣を被り

約半年ぶりに実家に帰ると、鳥の声がした。家に鳥(インコ)が増えていた。クリスマスに何も買わなかったのもアレだからと、母が弟に買ってくれたようだ。名前は「こゆき」らしい。白いからだと思われる。弟のネーミングセンスはかなり終わっている方なのだが、置きに行くとこうなるのかと思った。今日になってから、狂ったようにエサを食べまくっている。動物を普段見る事がないので、ウケるという感想が頭の中を占めている。ウケる。日中、ふらふらと雪が降っていた。さんさんとスノーフレークが降っている瞬間もあり、陽の光に当たってたちまち溶けていくようなしょっぼい雪の瞬間もあった。最寄りのブックオフに行ったら、夏に行った前回とフロアの配置が変わっていた。いや、もっと正確に言うと、成年向けコミックのエリアが大幅に変わっていた。フロアの真反対側に移動していた。ゲーム売り場が近くにあるので、子供の教育によろしくないという理由ではないかと思われる。性の目覚めを迎えて周囲から情報を経て自覚的に情報を処理できるようになるまで、アダルトの4文字なんて、ただのカタカナ4文字にしか過ぎないからね。東京の店舗に比べると割り当てられている棚が少ないが、ざーっと目を通した。こういう所に掘り出し物が眠っているのかもしれないと思って見ると、掘り出し物が眠っているような気になってくるので自己催眠は重要である。特に掘り出し物はなかったが。ちまちま私が自分で所持している単行本が確認され、売られてしまったそいつの背表紙に哀愁を感じていた。これはもう歴史的文化的遺産であって、実用に耐えるかどうかは割と審議にかけた方がいいのではないかというものも結構あった。何でこんなものが商品として並んでいるのか、と思う場面に遭遇する事があるが、あれは恐らく売り場担当が担当であるだけでよく知らない場合も少なからず、むしろ数多く存在するからなのだろうと思って見ているけれど、こんな推察で合っているのだろうか。コミックの横に、アダルト雑誌の棚が続いている。雑誌にはとんと詳しくないのでどう見てどう評価すれば分からないのが歯痒く口惜しかったのだが、2005年発売のエロアニメ総力特集を組んだ雑誌などもあり、これはある視点を持って攫えばかなり面白い棚なのだろうと伺われた。著名人との対面後に「私の知識が及ばないばっかりに」と悔しがっている人間の気持ちがさっぱり分からなかったのだが、もしかしたら、私が今日あの棚に感じた感情の欠片がそれに近かったのやもしれない。

百足

何回も使っているのに、それが「ただなんとなく使っている」だけなので、使っているものの要求水準を満たす事にふと失敗すると、頭が真っ白になって「なんでだどうしてだおかしいだろう」しか浮かんでこなくなる。普段手垢のついた馴染みのある事ばかりしていると、それはそれは事態の急転に弱くなる。だから誰か連れ出してくれ~と思うのだが、そんな機会が生じる隙間を与えないほどに錆ついている。さっき新幹線の改札を通った時、水準を満たさないものを拒む2枚の食パンに行く手を阻まれたので、一体私は何を失敗しているのかしたのか混乱して立ち往生した。原因は、乗車券しか持っておらず、特急券がないやないかというものだった。何回も新幹線を利用しているが、今だに乗車券と特急券の違いが分かっていないし、どうしてどちらか欠けただけで通れないのかも分かっていない。この間新幹線のチケットを買いに行ったトラベルセンターのおねーさんはそんな事言っていなかったはずなのだが、あれか、「空いてるなら席の分はいいですわ」を乗車券だけでいいですわと捉えられてしまったが故のこの事態なのだろうか。いや、いや、それにしても、トラベルセンターなんて場所で働いている以上、乗車券だけだと困るだろうみたいな事を想像しないものだろうか。いつも往復で帰省のチケットを買う時って、何枚受け取っていただろうか。記憶がない。……何枚もらっていたかなあ。新幹線乗車券は、新幹線に辿り着くまでのJR経路、あるいは新幹線からのJR経路分の運賃も賄えると知ったのは最近の話である。まだ品川を過ぎたくらいなのに酔ってきた。弱い。電車に乗って、特にやる事がないというか、やりたくてよしやろうと思うほどの熱情を抱くものを持っていない時は、心と頭を虚ろで満たして空心の極みに至って車内の広告をつらつらと眺めている。新しいものがあると、どこがどう、全体的にどう、など個人的な評価をほじくり出しながら鑑賞、あるいは批評している。庶民がうるせーぞこのやろーというのは承知で、今自分の手元にある工具で目の前の広告をバラし、一体何を得てそれをどう思うのか。電車の中でよろけないように重心を調整しながら、なんとなく見てしまう。その度に日本の広告、というかコピーの振りかざし方、あるいは構え方が嫌いだなあと思っているが、別に海外のものが好きなわけでもないし、ただイメージ重視で着地点が不明なミサイルの雨に降られるのが嫌なだけかもしれない。改札の2枚の板を、トースターから飛び出す食パンに例えるのは面白いと思うぞ。

 

 

愛着ってなんなのだろう。何かに愛情を着せる事なのか、何かへの愛情に着られている事なのだろうか。着るという動詞は、ほとんど受動態で使わない。愛情が着いているのだろうか。付着の着かもしれない。愛情を着せるのであれば、着せられるのであれば、サイズ展開はどうなっているのだろう。SからXLまで、それ以上はサカゼンで展開して。でも、愛着は「湧く」ものらしい。液体なの? 液体って着られるの? 分からん。

靴を作るにまず靴紐から

食った事ないのだけど、メダカって美味しいのだろうか。一匹二匹(魚類だから数え方は一尾二尾なのかもしれないが)程度だと食いでがないので、ある程度てんぷら粉でまとめて揚げるのがよさそうである。メニュー名がメダカの学校になりそうなのが非情というか捕食被食感がしてとても居心地が悪い。一蓮托生、一天託生だ。でも天ぷらにすると、水分が飛んでカリッカリどころか身が蒸発して衣しか感じないという可能性も残っている。シラスみたいに踊り食いするのがいいのか? そもそもメダカを食べるというその目的自体の如何はどうなのか? 是が非でも是を非にしてでも食べたいという燃え上がる気持ちがあるわけではないから、忘れてしまってもいい話だ。明日帰省するので準備した方がいいのだろうが、めんどい以外の感情がめんどいに押し流されて下水に消えていくので、明日朝起きてからスーツケースを押入れから引っ張り出して荷物を詰めて、それでいいかなと思うが、明日の朝に作業工程が集中するのもそれはまた別の意味でめんどい。一週間と少ししか帰らないとはいえ、その間に手元にないと困るものも少なからずある。というか、身近に要不要問わず私的な堆積物が存在しないと落ち着かないので、どこでもドアを通過していつでもリカバリが効く状態に身を置いておきたい。そういえばあれをやっていないがこれがない、そういえばあれもまだだったがこれがない、そんな事態になってからでは遅いのだ。遅いのだが……。後にぶん回している。督促って嫌な字面だよな。督(とく)が促(そく)してくるのだ。パワハラである。出せるもん出してもらおうかい、ああ? 出せるからと言ってはい出しますと応じると思ったら大間違いだ。頭の中で具体的に掴める残留思念が、箱ティッシュの最後の2枚くらいしか確認できないので、中身のある話ができそうにない。普段から中身のある話をしているわけでもない、適当な端緒をつかんで、それを弄くり回して相手に話題を延長・拡張・敷衍してもらう事には、相当程度普段生活している精神生活的範疇に重大な差異が見られない限りまあまあ長けているつもりである。ものすごく分かりにくい日本語が我が物顔で正座して介錯を待っている部分については、基礎的価値観から異なる人と建設的な会話を交わそうという気が初っ端から起きないからだ。公園のど真ん中にマンションを建設しようとは思わないように、剥き身のカステラをカバンの中に入れないように、初めから動機が奪われている場面状況がある。

天ぷらの代わりにお好み焼きを蕎麦に乗せる

何を見てそんな事を思ったのか忘れたが、「本と文章は別のものなのではないか」と思った。活字になる前、テキストとしてただ存在しているふわふわしている、言葉で内容を想念させるのが文章で、それが物体に着陸したものが本なのではないか、という事のようなそうでないような気もする。本になると版組されるし字体という衣装も着ているし、紙の色味や本自体の重さでバイアスがかかる。その服の向こうにどんな裸体が隠れているのか、見えないじゃないか。見せろ、お前の原質を。ボディラインの微妙な凸凹に、無理矢理意味を見出す自由を与えてほしい。文章が好きだ。人の口から出てその場で立ち消えるような、ほんの一瞬、喫煙所を横切った時のような、そんな存在感だけを残して消えていってほしい。その意味で言えば、コントっていいなあ、と思う。浮石を踏みつけ続けて、向こう岸にぽんぽん渡っていくような危うさと、巧みに渡り切るスペクタクルのエンタテインメント性が両立していて気持ちがいい。過剰に纏ったキャラクター性が起こす衣擦れの音がいい。コントみたいな人生がよかったなぁ、と思う。思ってしまうなぁ。「笑われる」のいいなあと思う。笑えるのも大事だ。まだ少なくとも手触りの残っている前向きな感情がこれくらいしかない。消しカスを指でこね続けていると段々黒ずんでいくのと同じように、今手のひらの中でにぎにぎしているこれがしおしおと光沢を鈍くしているが、宝石の原石を磨いているのと同じ、これはこれをぺかぺかさせるための愛玩なのだと考えながらヒーリングボールみたいににぎにぎしている。魔法の粘土みたいに突然もにょもにょと形を変えて、私の生活を激変させるような、フィクションで出てくるような、外へ連れ出してくるなんかにならないかなと念じていると、日が暮れている。お前は何にもならないのかな、と手元を見ても、色もないし有形でもないし、ところてんで押し出して食べてしまって、なかった事にしようかな、の念が吸着されて汚くなっていく。家に帰ってバナナマンのコントDVDを観よう……ラーメンズのコントを久々にYouTubeで見返してもいいかもしれない。とりあえず現実から両足を遊離させるために、足をバタバタさせるのか、手をバタバタさせるのか、酸欠夢遊状態になって口をパクパクさせて絶死手前まで行ってお花畑をちらりと伺うのか、なんかもうどうすればよいのかほえ~。まだ雪が降ってないな。

ブロッコリーのてっぺんの方は掃除道具みたい

バナナマンのライブDVDを観ながらヘラヘラしていたら一日が終わって日がとっぷり暮れていた。朝方にヤマトの兄ちゃんがアマゾンの荷物を届けに来た。昼前にもう一回同じ兄ちゃんが来た。もう一つ荷物があるのを見落としていたらしい。二つ目にもサインをさらさら書いてやるかと思ったら、「お名前こちらで書いときますんで! こちらで間違いないですよね!」と満面の笑みで、ファンキーモンキーベイビーズのCDジャケットかと思うほどの満面の笑みで、業者用のシールを剥がして私に見せてきた。はい、はい、これで合ってます間違いないです大丈夫です。帰っていった。届け先のサインを配達員が、当事者の合意があるとは言え、配達員が代筆しちゃうのは大丈夫なのだろうか、と思った。そういう事、していいのかしら。割とギリギリな気がする。二回もお騒がせして、お時間取らせちゃってごめんなさいね! あとはこっちでやっときますんで! という事なのだろうか。それにしても眩しい笑顔だった。目が焼けるかと思った。あんなに純粋な笑みを浮かべる事ができる人間が存在するその事実に、心が苦しい。ゴミ箱がパンッパンになって、鼻をかんだティッシュがコロリとまろび出る程になった瞬間、「これはもうやるしかない、今しかない、今を逃したらまた絶対暫くやらないぞ」と天啓を得て、ゴミ袋をくくって玄関に放り、空いた米袋を畳んで資源ゴミ置場に安置し、掃除機を引きずり出して数ヶ月の澱を吸い込みにかかった。目が悪いので細かいゴミが全然見えず、気を抜いていると掃除せずに長期間が経過する。掃除の神様がゴミ箱から語りかけてきた景気を逃せば、次は何週間後になるか分からない。不穏な形状を成した抜け毛のマリモやどこから湧いてきたのか皆目見当もつかない綿埃を粛清した。部屋はどうしてこうも汚れるのか。分からん。ものすごく美味しいパセリってありうるのかしら、と思った。ものすごく美味しいパセリ。美食家が大枚をはたいてでも舌鼓を打ちたいと思うような、そんなパセリ。パセリって、そもそも、欲求の対象になり得るのだろうか。肉や魚ではなくて、葉っぱだし、それも相当普段から脇役遣いをされている葉っぱである。小学校の給食においては、名だたる悪者の筆頭のうちに含まれるといってもいいだろう。そんな、圧倒するような質量だとか牽引するようなカリスマだとか、そういう資質を感じないパセリは、果たしてピンスポットで浮き上がる事があるのだろうか。

呉越同舟に見る婚前交渉の有無とその是非について

電柱に登ってみたい。理由はない。電柱に登ってみたい。そこそこ高いところから、そこそこの眺めを得たい。ごみごみと密集した住宅街なので、電柱の助けを借りて多少高度を上げてみたところでさしたる絶景は得られないと思うのだが、電柱によじ登るという行為に満足した後、ふううと一息つきながらぼうっとしていたい。銭湯のでっかい煙突でもいい。アニメくらいでしか見なかったが、家の近くにある銭湯の煙突は、根元に立って見上げると本当にでかい。東京タワーやスカイツリーは、あまりに「高い高い」ともてはやされ高い高いしていたので刷り込まれたイメージのパゥワーが異常に強く、実物を見てもしょぼいなとしか思わなかったが、比較的何のイメージも抱いていない煙突に相対してみると、その物質としての質量・在り方に圧倒される。でかいものはでかい、それが真実である。大艦巨砲主義なんて、そんな、幼稚な戯言机上の空論をエゴで肥大させたものでしょ、と考えていたが、これはきっと私が生で、生活の職業の生命活動の場としての船に乗った事がないからであって、実際に戦艦に対しての経験知を持っているならば、でかい方が強そうに見えて強いのだと考えるだろう。巨躯の体育会系が目の前に立った時、問答無用で萎縮するのと同じである。大きい事がいい事かどうかは知らないが、大きい事がすごい事であるというのは分かった。よくもまあ毎月毎月そんなに書く事があるなとゼクシィの電車吊り広告を見るたびに思うのだが、広告下部余白に見慣れない文句がそっと添えられているのに気が付いた。原文をそのまま引っ張ってきてみる。「好きだから、好きでない時も、あなたといたいと思いました。結婚するとかしないとか、それよりもただ愛してる。」以上である。「????」と思った。結婚情報誌なのだから、タテマエだけでも結婚を礼賛してくれないだろうかと思った。お金のかからないウェディング特集を組んでいるのはお前達じゃないのか。賢いお金の使い方BOOKを付録につけているのはお前達じゃないのか。好きでない時に、好きでないやつといたいと思うのか? 両親が互いに疎みあっている光景を見る子供の気持ちになれ。好きじゃない時は一緒にいないでくれ。好きじゃない時が来ないようにどうにかしてくれ。好きじゃない時が来ないと一抹でも思ったから結婚するんじゃないのか? 分からん。その側にあった、かるたに惹句を記した形式のJR時刻表の広告に紛れ込んでいた、「うれしいな/お年玉で/時刻表」も分からん。分からん事ばっかりだ。

ゴミ散布車

散漫としていた。散漫は、散って慢である。散るに関しては、気が散って意識が散ってどこにも凝縮せずうっすらした状態の事だろうから、感覚的に何が言いたいのかは分かる。慢って何なんだろう。漫遊記、漫画、自慢、傲慢、怠慢。この中だときっと怠慢の漫が散漫の慢で、漫遊記の漫がぼーっと遊び暮した過程の記録だと言うのなら、それもまた散漫の慢だろう。散漫としているのは得意だが、こんなもの得意でも何にもならない。まとめるためのゴム紐が必要だ。まとめたらまとめたで、何だか窮屈で嫌だなあと思ってするりと逃げ出しそうな気もする。首回りに生地が伸び伸びになっているタートルネックを着ている人を見ると、自分がそれを装着した時の感覚を想像してものすごく嫌な気分というか、居心地の悪い気分になる。首回りに何かがあるのが、とても嫌である。ネクタイやYシャツも嫌だし、首に何か掛けているのも嫌である。社員証をぶら下げたまま昼休憩に出かけるスーツを見ると、首回りの居心地が悪い。ネックレス的な何かを意識して身につけた事はないし、これからも向こう決してないだろう。絞首による自決を選んだ時にだけ、首回りのに異物が存在する事を妥協するはずだ。首回りはどうしても嫌なのだ。空間的なパーソナルスペースとでも言えばいいのか。マフラーは、寒いので仕方ないから巻く。本音を言えば巻きたくないが、「なんか嫌」で寒い思いをするのと「なんか嫌」を押し殺して寒さを逃れるのであれば、寒いと思わない方をとる。寒いとトイレが近くなるから、寒いのは嫌なのである。消費期限が一週間弱過ぎていた鳥もも肉を食べたが、意外と大丈夫である。パックの中に横たわっている時の悪臭は確かに日が経ってイカれてしまった鶏肉のそれだったが、味自体は歯ごたえが薄いくらいのもので、問題はない。醤油とマヨネーズと豆板醤で味付けをすると、アホみたいな味がする。カップ麺の底に溜まる、火薬の残りカスみたいなものを煮詰めて乾燥させ粉状にしたものを油に溶かしたかのような、大分頭の悪い味がする。マヨネーズをどれだけ入れてもそこまで味がしないのがネックであり、マヨネーズって本当に油のカタマリみたいなものなんですね、と思う。燃えるゴミの日に燃えるゴミをポイするのをすでに3週間かそれ以上もの間完全にすっかり忘れており、ゴミ袋がいっぱい溜まってしまっている。夏だったら絶対に酸鼻を極める地獄絵図になっていたはずなので、冬に感謝しなければいけない。なぜか当日になると忘れている。

火の手を伸ばして

一週間くらい前から、夜の9時くらいに外から拍子木が聞こえる。続いて、おじさんの「火のぉ〜用心」『火のぉ〜用心』という掛け声が聞こえてくる。町内会の有志皆様による、火の元に気をつけましょうキャンペーンである。防災運動とか防火運動とか色々言い方が浮かんだのだが、要するに何が言いたいのかを具体的に噛みほぐして吐いてみるとものすごくダサいキャンペーンになった。しかし、火気には気をつけましょう、年末で気が緩んでいるかもしれないし、家無しで年を越したくないし、ガス栓とかチェックだよチェック、という事なのだろう。台所にIH調理器具がでーんと鎮座している人間からすると、火気って何だと思ってしまうのだけれど、電気系統からの火事もゼロではないので気をつけるに越した事はない。それにしても、IHを導入した結果、日常で「火」(ファイア)を見なくなった。もしかすると、喫煙者でもない限り、日々の光景の中に炎が存在する機会がないのかもしれない。……冷静に列挙していくまでもなく、ない、よな……? ないと思う。2日前に忘れていて書きそびれた事があるので数日遅れで記録に残しておくと、人生で初めてゴーゴーカレーに行った。あのゴリラマークのカレー屋さんである。アリさんマークの引越センターと同じくらいに、ゴリラマークのカレー屋さんだ。外食でわざわざカレーを選ぶ必要性をほとんど感じず、またCoco壱番屋がカレーのくせにべらぼうに高い料金をとるので、「外で食うカレーは高い」という意識を持っていたのだが、ちまちまゴリラの前を通るたびにメニュー表を眺め、こっちはあまり法外な値段ではないな、と確認したので、一回くらいは行っておこうと決心し、入店したのである。黄色さが目に刺さる程度は、ドン・キホーテ店内の商品が視界に雑然と殴り込んでくるあの濁流みたいな感覚に近い。まさかの券売機システムだったのでびっくりした。ついでに、UIもかなり使いづらかったのでびっくりした。店内に延々ゴーゴーカレーチャンネルが流れている。グループ独自で持っているチャンネルらしい。よく分からない、20年くらい前のテレビみたいな質の絶妙クオリティの自社広告が流れ、CMが流れ、塙(兄の方)のMVが流れる。ものすごくとっちらかっていた。何も考えずメジャーカレーを頼んだ。おっきい方がいいかな、と食べ物を選ぶ時にどうしても考える。チキンカツ2枚とソーセージ3本、ゆで卵が乗っていた。ルーが黒々している。カレーも美味しかったはずなのだが、予想だにせずチキンカツがものすごく美味しかったのでそちらの味を忘れてしまった。また行くと思う。

ヘビィ・オイル・スマッシュ

人から昼ご飯をもらったのだが、これがまたものすごいやつだった。「ものすごい」という単純で裏表のない言葉で表現するのがきっと適当なほど、ものすごかった。焼いた硬めの長パンの中に、てんこ盛りなトマトソースとミートボール、モッツァレラチーズが挟まれており、パンは染み出した油で早くもふやふやである。包んである油紙も、透明になっていない所がないのではないかというくらい油が浸透しきっていた。給食で出て来た揚げパンをいざ油紙に包んでみると、おそらくこれくらいシースルーでセクシーでオイリーな事になっていたのだろう。砂糖がまぶしてあるから喜んで食べていたが、何に砂糖をまぶしてあるのかは気にしなかった。知らぬが仏とはまさにこの事で、人は何も知らないまま死んでいけたら仏として死ねるのではないかとさえ思う。めちゃくちゃに言ってしまったのでここで言質の方向修正を図ると、なぜチーズインハンバーグが美味しいのか、なぜソースもりもりのグラタンが美味しいのかと言えば、油でてろてろして摂食本能と生存本能のせめぎ合う軋みが「うめぇ」と騒ぐからである。ぬるぬる油で滑ってノイズが起こるのかどうかは分からないが、確かにそこには一種の「うめぇ」がある。ギッチギチに詰まったミートボールとベットベトに張り付いたモッツァレラがジャンクな大合唱を奏で、口の周りがベタベタになる。よく考えたら野菜がトマトくらいしか入っていない。それ以外は全て黄色か赤の食品群に帰属する。カロリーの塊オバケみたいなフードだった。人生であそこまでアルティメットにパラメータを振り切った食べ物に出会った数は多くない。貴重な経験をし、ついでに非常に鈍重な胃袋になった。全く消化が進まない。でっかいミートボールスパゲッティのスパゲッティの部分を質量丸ごとパンに置換するとああなると思う。電気屋のサンプルPCの画面に、オンラインゲームの広告が延々とダラダラ流れていて、毎度毎度電気代がもったいねえなと思うのだが、高難易度コンテンツへの勧誘文句がものすごく気になったのでここに引いておく。正確に字面そのままを写したものではないが、「どこまでできるか、太刀打ちしてみよう!」と、こんな文面であった。肯定文の中に登場する「太刀打ちする」という動詞に、受け流せない気持ち悪さを感じた。普段目にする太刀打ちは、必ず「できない」を引き連れている。太刀打ちできないのだ。子供を失って輪郭のぼんやりした太刀打ちが、ふらふらと画面に揺れていた。

無味の病人食

どんな美人も3日で飽きるらしい。そうか。どんな美人も3日で飽きるのか。飽きっぽい。飽きるほどの人間に巡り合った事がないので、私はまだ美人に出会った事がないのかもしれない。美人という言葉が内包するある段階への年齢達成度が、思考の沈潜を妨げているのかもしれない。というか、美というその概念に大して重きを見出していないからかもしれない。可愛いは美しいの下位概念なのだろうか。美のもとに可愛いはひざまずいているのだろうか。私は別の次元の話だと思う。美人を3日で飽きるのだろうか。漫画やアニメのキャラに対してはさっぱり飽きる気配がないが、それは彼ら彼女らが美人ではないからなのだろうか。それとも、元々の謂いが誤っているのだろうか。3日である美人に飽きたら、次はまた3日の間だけ夢中になるための美人を探しに行くと思う。それとも、美人だけを愛でている事ができるほど暇ではないかもしれない。正月シーズンに地元で同窓会が行われるらしく、その情報自体は前にタレコミを受けていたので知っていたのだが、さっき詳細が送られて来た。バーを2時間貸し切って会費が4千円らしい。ぜってー行かねーぞと思った。行って会って話したい同級生がいないと言ったらそれは真っ赤っかな嘘で地獄に行ったら間違いなく下を引っこ抜かれる事請け合いだが、シラフノンアル人間にとって、酒を飲みながら雰囲気を楽しむ場所に金を払うという行為は、それはもう、金をドブに捨てるのではなく金をガスコンロにかけて灰にするに等しい。ドブに捨てても銀行に持っていけば(おそらく)新しいものと交換してもらえる余地が残るが、灰になればそれでおしまいである。そのシリアルが印刷された銀行券は永劫に消滅する。価値と実体が手を取り合って姿を消すのだ。千円くらいならまあそこまでの交通費を加味しても行っていいかないいよね多分と考えたが、飲むものがミネラルウォーターくらいしかなさそうな場所にそんな大枚を落としに行く気には本当に微塵もならない。こういう催事の指揮をとりそうな面々を思い浮かべてみると、ああそれはもう酒が介在する快の力場に親和する事に馴染みまくっているのだろうなと容易に推察されるカラクテールばかりなものだから、この多数派な場所選びには納得なのだ。こういう事があると、いつも「なんで買って来たお菓子囲ってジュース飲むだけじゃダメなんだろう、そっちの方が安く済むしまだこっちも楽しい」と思う。こっちの理由なので、あっちの理由ではないからだ。