他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

初めてを捨てる時に泡が伴うのは二度目

寝る時、布団に身体を置いてから必ず行うルーチンがあるのだが、その一つに「枕を殴る」がある。漫画や小説では「叩いて綿を整える」的な表現が多いが、私はそんな事はせず、グーを握りしめて思いっきり数発殴る。ぼすっ、ぼすっ、ぼすっ、と空っぽの音が返ってくる。日常の中で働く、ただひとつの暴力かもしれない。ぽんぽん叩いて整うほど上等な綿は入っていないし、そもそも綿なんて入っておらず化繊がみっちりと押し込まれている。話が通じなければ、その後の手段はいくつかあるが、その中からグーパンチを選んでいる。これくらいするとようやっと整うのだ。手にニベアを塗って寝る。寝ると言うか、横になるだけだ。なかなか寝られない。寝付きが悪く、今日もきっとそうに違いない、と思いながら昨日は掛け布団を引き上げながら身体を倒した。就寝の挨拶を、誰にというわけではないがぼそっと口にする事にしている。「おやすみたい」という聞いたことのない言葉が零れた。自分の言った言葉を頭の中でもう一度反響させ、文字に起こして自覚してみた。やっぱり「おやすみたい」と言っていた。おやすみなさい+寝たい=おやすみたい。覚醒した苦し紛れの脳味噌は、ヘンテコな造語を産生して寄越したのだ。おやすみたい。おやすみなさいを熊本弁で言うと、こうなったりしないだろうか。寝られないなりに、新しい言葉に出会った。「ホームパイのみみ」という商品が発売されている事を知った。カプリコのあたまに代表される、「人気お菓子の人気がある部分をフィーチャーした商品」も来る所まで来たようである。そもそも、ホームパイなんて全面みみみたいなものだ。パラパラのベビースターラーメンと、ほうとうみたいな面のベビースターラーメンの間にある違いくらいしかそこには認められない。ある島の住人が、「私たちは沿岸部の住人です! 内陸部の人たちとは違うんです!」と言い出したかのような感じがある。一緒じゃないか? 「まあいいか」と「もういいや」が同時に閾値に達したので、人生で初めて金を払って髪を切ってもらいに行った。「このくらいにしてください」の資料にしたのが2年前の証明写真なので、一度襟足にハサミを水平に走らせた以外はついぞ手を入れなかった事になる。色気のあるところではなく、ただ髪を切るためだけのところに行った。というか、そこ以外はビビって入る勇気が湧いてこなかったと言うのが適切である。ばっさばっさ髪が落ちていくので、眼鏡を外してぼやけた視界で見ても面白かった。色々メニューがあって、何も言わなかったらフルコースでシャンプーと顔面剃毛までされた。しかし、面白かった。3回くらいよく分からない液体で頭を洗われ、ブラシで頭皮をゴシゴシされた。本当にシェービングクリームを塗った後にあったかいおしぼりをかけられるんだなと知った。おしぼりの下で、シェービングクリームの泡がぷつぷつと弾けていく音は、まるでホットケーキを焼いているようである。襟足やもみあげの短くキワにある毛は、カミソリで落とされる。ヂッ、ヂッ、という音が恐怖と快感を同時にもたらす。肌に冷たいハサミの金属が触れるたび、心臓の付近を言いようのない、絶頂に近い電流が走り抜ける。喉をカミソリで掻っ切られた男が、死の瞬間射精する小説の描写は、確かに間違いではないのかもしれないと思った。

パイ投げされるよりエンゼルチョコパイを顔に押し当ててきて徐々に潰れていく方が怖い

突然、濡れ煎餅で殴られたら怖いと思う。普通のおせんべいだったら、軽快な破裂音と微細な粒子を撒き散らして一瞬で殴打が行き過ぎるが、濡れ煎餅でbatteryをはたらかれた場合、べちょりと湿り気があり柔軟性も兼ね備えた平面が、きしっ、と割れて、不快の許容値を僅かだけ超えたべとべとの欠片を落とすだろう。髪や頰に張り付いた焼き菓子のカスを指でつまみながら、殴ってきたこいつは俺の事が嫌いなのだと悟ってしまうに違いない。濡れ煎餅はああ見えて耐久性にも長じているため、一度のヒットでは損壊せず、二度目三度目のビンタを許すかもしれない。外形を保ったまま、肉をひっぱたいていく濡れ煎餅を恨めしげに見遣りながら、そいつの代わりにこちらの自尊心がおせんべいのようにぱきぱきと軽い音を立てて傷ついてくのだ。なので、私は突然濡れ煎餅で殴られたくない。ずっと「ジュンク堂」は「ジュンク堂」で、カナのジュンク部はただ名前であるからしてカナだと思っていたのだけれど、「淳久」という漢字を当てるものだと知った。江戸時代の年号みたいな字面である。じゅんきゅう13年、とか。もしかしなくても、私が知らないだけで、実は漢字表記も存在するものというのは数余りあって限りないはずだ。肉のハナマサももしかすると「花雅」と情緒湛えるハイソな漢字を当てるのかもしれないし、まあマツモトキヨシは突飛なアウトコースを駆ける事はないと思うが、PARCOにも漢風な御名が存在したりしなかったりする、かも。ひとつまとまった作業が終わったぞ、やっほい、と喜んだのも束の間、ゴールテープを切る前に「あと一周ラップが追加されたから」と言うが如く、新たな作業をお願いされてしまった。なんだかんだ、色んな事を途切れなく委任されていて、断絶するよりはもちろんこの上なく有難い事なのだが、流れてくる源泉の性質を考えると、それあたかも遠洋漁業に乗り出すかのようで、「ちょっと乗ってく?」「いいですよ」なる二言の会話だけで1年間名も知らぬ海域で水産業に従事する事になったような、いつの間にか遠い所へ来てしまったなという諦めにも似た無色の感慨がある。ちょっと立ち止まって考えるまでもなく、しばらく続くと思うので、船酔いしてゲロを吐かない体になる程度の利益は得て地上に戻りたい。本屋で買って来たいくつかを読んだ。葵せきなはまたぞろシリーズが終わるらしいので、そろそろ次のタイトルを出してくるものと思う。別式面白いよ別式。

着ぐるみを着て生活しているようなものなのか

起きたら洗濯物が雨に濡れていた。昨日流れていたラジオで「明日朝から天気が崩れる模様です」と言っていたのを昨晩の私は聞き流し、朝起きたら取り込めばいいじゃないと思った。すでに十分乾いており、室内に収容してもよかったのだが、もう少し夜気に当ててもいいかな、とスルメみたいな扱いをしたのが運の尽きだった。自家製のスルメや干物を作った事はまだない。他人の文章を読んでいると、どうしようもなくむずむずする。ここはこういう言い方の方がいいのでは、この助詞は違和感があるからあっちの方がいいのでは、などなどの思念が生起して頭の中でぐるぐるする。洗濯機のホコリ取り網(正式名称が分からない)みたいなところにそれらは溜まって、たまに取り出して検分してまた戻す。洗濯機の、ホコリが溜まるあの部分は、掃除してから3回くらい稼働させただけでほぼ元の木阿弥になるのだが、私はそれほどまでにホコリと生活を共にしているだろうか。確かに目を凝らすと衣類表面に繊維のような細い細い、誤差の産物みたいなミクロなホコリは付着しているが、それにしてもネットをかくも満たすほどについてはいない。塵も積もれば山は真実だとしても、その塵がどこから来たものなのか分からなければただただ気持ちが悪い。靴職人のおじいさんが寝ている間に靴を仕上げてくれるフェアリーと同じように、私には寝ている間に洗濯機をホコリで満たしてくれるフェアリーの支援があるのだろうか。塵が積もるからには小数点の気が遠くなるくらいの位で1を足し続けるような微増ペースを保って欲しいのだが、第2位くらいで1が次々加わり続けているような気がする。それとも、文字通りのハウスダストは、直感的に想像されるよりも遥かに多く大量で夥しいものなのかしら。おうちに空気洗浄機を一ヶ月設置して、フィルターの汚れ具合を見てから結論を出したい。話が逸れたが、というか逸らしたが(「話が逸れたが」という言い方ではまるで当人に非はありませんと言っているように聞こえるが、頭の中に浮かんだ脇道に飛び込むという最終的な決断を下すのは話者自身なので、他責的な表現でよろしくないのではないか)、彼我の間にある理想的、それほどでなくとも快と感じられる文章モデルは違うものかと気になったり悩んだりしている。ひょっとするとこんなのは水中で芥と流される小さな悩みで、流麗で無縫に流れるような文章を目の前にすると、じっとして読み入るしかない。

じゃんけんは全てグーが勝つと言ってくれ

貯め込んだ、あるいは捨てるのを忘れていて堆積したビンを回収に出した。ビン本体はビンだが、ビンの蓋はカンである。回収業者はその辺に敏感なので、ひとつひとつ手作業で心を込めて丁寧に蓋を捻り外して分別した。ラー油だとか豆板醤だとか、鯖そぼろだとか、ここ数ヶ月で自分が辿った調味料の軌跡がよく分かり、だからと言って胸に去来する云々が特別あるわけではないのだが、大量に貯め込んだ物を一気に放出するのは開放感というか一種のエクスタシーじみたものがあり、ダムの建設をゼロから観察し、一年間貯め込んだ水が一気に吐き出されるところを見ると似たような感慨を得られるのやもしれない。淡々と日々が経過し、いつの間にか残高が増えている預金通帳も同じようなエモーションを寄越してくれるかもしれないが、満たされるほどの額が残るほど立派な生き方をしているわけではないので実証は難しい。お金は確かにいっぱいあって困る事はないが、決してないと思うのだが、それはそれとして、数字として積み上げられるお金は、使わずに貯められて残っていくわけで、将来への配慮保険という意味合いも少なからずあるのはもちろんそうだが、私みたいなしょぼい金銭感覚からするとどうやっても蕩尽できない金額を一人で有している現実もそこにはあり、そのお金ってなんなのかな、と考える。ショッピングモールの立体駐車場がいっぱいになるくらいの車を持っていて、「こんなに車を持っています」と言われても、「別に1台、せいぜい2台くらいでよくない?」と思う。トヨタのそれなりの家庭車でいい。持てる限りの車を駆使してリース業を営んでいるのか、もしかしたらいっぱいの車は全部軽トラやトラックで実は物流に大きく寄与しているのか、世界中の車を集めてミュージアムを設け技術的啓蒙に勤しんでいるのか、そこには色んな使途があって、所有する本人が何を望んでいるのかは分からない。とんでもない物量を持っている理由が分からないのは、本能的に怖い。店に、周囲と雰囲気があからさまに違う人がいた。cut a figureという英語があるのだが、まさにそれで、輪郭に沿って存在がエンボス加工されているかのようだった。そこにその人のプレゼンスがある事に、一抹の不安もなく、正々堂々と真っ直ぐに「あった」。ひょえ〜と思いながら気にしていたのだが、あとで店長から話を聞くと、私が知っている数少ない俳優の一人だった。なんか似てるなと思ったら、本人だった。あそこまで存在は強度を持てるなんて、知らなかった。

文脈のない白玉を食べ物として認識できるか

洗濯竿の一点にだけ、屋根から落下する雨水が集中的に滴下する。そのワンポイントのせいで、窓一面に水滴が撒き散らされ、直下に干された洗濯物がびっしゃびしゃになる。前の住居では、上階の排水管が緩んでいたのか、同じようにぴったぴったと垂れ続ける箇所があった。水漏れに嫌な縁がある。すれ違ったおばさんが、IKEAのあのバッグを提げていた。ものすごいデカいよく見るタイプのものではなく、トートバッグより一回り小さい程度のちっちゃなやつで、そもそもあのIKEAカバンにサイズ展開があった事を初めて知ったのだが、そのおばさんは裏返しで使っていた。特大のタグが数枚べろりと外に飛び出していたので、まさか気付いていないとは思えないのだが、表裏が区別しづらいデザインではあるので、無自覚にそのまま使っているのだろう。肉とパンを買いに行った帰り、鯛焼きを買った。前回通りかかった時に結構な待機列が出来ていたので、もしかして美味しいのかもと記憶に留めていた店だ。しかし、鯛焼き屋ってどうしてすごく小さい規模で展開されるのだろう。鰻の寝床みたいに細長いタイプか、やや長方形気味のこぢんまりしたタイプか、この2種類くらいしか思い浮かばない。焼くための鉄板と客対応の窓口さえあればいいので、下手に大きい店面積にして賃料の見栄を張るよりはいいのかしら。揚げ鯛焼きみたいなやつを注文したら、思ったよりも時間がかかり、型からはみ出した生地を店員がハサミでトリミングするのをしばらく見つめていた。ハサミの刃が、生地の切れ端を切り取り、挟んだあんこを刃の面でぎゅっぎゅと整えている。そのハサミ、綺麗なんだろうなと思った。語尾が上がる方である。存在は知っていたが、一度も足を踏み入れた事のなかった近所の公園に持って行って食べた。日向に腰掛け、芝生をぼうっと眺めた。手持ち無沙汰そうなおじさんが所在無さげに手をもぞもぞさせながら無聊を慰め、カップルが自撮りをしながらイチャイチャ会話し、一際高いピッチの、おそらく英語と思われる言語で外国人女性が爆談笑していた。子供が鳩の群れに木片を投げつけては追い散らして遊んでいる。ここは、公園という名前を被せられた、ただの場所だと思った。遊具に連関がなく、場所自体にまとまりがなかった。そこにいる人が、公園にいる時の振る舞いをするから公園に見えているだけで、ここは場所が自覚を持たない中空だと思った。鯛焼きというのは、思ったよりもボリューミーで腹が膨れる食べ物だという事を思い出した。3つ買ったけれど、正直1つでよかった。あげる人がいない。

汚れ役が被った汚れは誰が落としてくれるのか

台所を掃除したら、スポンジが形容し難い色になった。水垢なのか、有機物が部分的に堆積した結果の成れの果てなのかは分からないけれど、あの赤とオレンジの中間、くすんだ色を見るたびに、頭の中で「富栄養化」が電光掲示板に流れる文字列のように掠めていく。水回りは、水がゆえに、常にびしょびしょな状態にあるので、その手の汚れが繁茂しやすい。掃除するには、いたちごっこの徒労感から諦めそうになる心を奮い立たせる意志が必要だ。悪はこの世から撲滅せねばならないという正義の味方の心境をほんの少しだけ垣間見る事が必要なのだ。いつ買ってきたのかさっぱり覚えていないメラミンスポンジが少し残っていた。ハサミで切り分けると、結晶みたいなカスが散らばるのが気になるが、物理戦においてはメラミンスポンジは無類の強さを発揮するアイテムだと思う。さすがにケミカルな薬品相手には分が悪いにしても、手で持って水をつけてただひたすらこするだけで汚れがさくさく落ちていくのは気持ちがいい。汚れの程度・種類によっては同じ箇所をひたすら3分ほど無心でこすり続けなければいけなかったりするが、ビフォーアフターを比べてみると「掃除したね!」という手応えが一番強い。メラミンという響きも可愛い。ポケモンみたい。ベトベトンに強い。生牡蠣を食べたが、お腹を下す事にはならなかった。私の親戚に、食べる牡蠣食べる牡蠣全て当たる人がいる。運が悪いのか行く店が悪いのか分からないが、あれほどのリスクを冒してまで生牡蠣を食べたいかと聞かれるとノーである。噛んでいると貝類が持つ特有の臭みが立ち上って来るので、あまり咀嚼が進まないうちに呑み込まなければいけない。しらすの踊り食いと一緒で、喉越しを楽しむためのものなのではないか。満腹中枢は顎の運動で刺激したいので、またしばらく生牡蠣にはお目にかかるまい。ゴテゴテして無骨な殻に、病的に青白い中身が乗っている様はアンバランスで面白かったけど。さっき、ゴミ箱の後ろでカサカサするちっちゃい虫を発見した。なんとなく、生き物としての直感が、「間違いない、こいつはGの血族だ」と教えてくれた。あの図太さと旺盛さを兼ね備えた生命力は伝わってこなかったけれど、各部位の質感から、間違いなかろうと結論された。今の家に引っ越してきてから、初めて目にするGの血族だった。一匹いたら、の句の続きは思い出さないように努めながら、丁寧にティッシュに包んで押し潰した。戦争の刻は近いかもしれない。

寄合経済は漂い続けている

期せずして大量の桜餅とみたらし団子をもらって帰る事になった。ので、大量の和菓子が台所にある。甘いものは好きだし、タダでいいところのものをもらえるなら喜んでもらって帰るが、予期せず「いっぱい」もらうと困る。きっと、道端で「これあげます」と言って5000万円くらい渡されたら、何も入っていない洗濯機が脱水をかけているように頭の中で万事が空回りしながら帰宅して、「床に座って正面に札束を置き腕を組んで使途を案ずる」という漫画みたいなアクションを取ってしまうに違いない。あって嬉しいものはあると嬉しいのだが、ある限度を超えて「ある」と嬉しさが水準の遷移をやめ思考を停止させる方向に働くのだ。5000万円もあったら、何をするのだろう。実家のローンを返すのに充てたいが、そもそもこういう場合税金とかどうなるんだろう。いちどきに使ってしまうのがいいのか、貯金して今後の人生に渡って切り崩していく蓄えにすればいいのか。一週間くらい考えに考えた末、「何でも願いが叶うアイテムを手に入れる」お話の典型的なオチのひとつに倣って、そんな金があった事を忘れるために募金するだろう。よくあるという事は、悪くない選択肢だという事の証左である。当たり前であるが。さすがに床に腰を構えて考え込みはしないにしろ、大量の和菓子は目前にぽんと置いてみると処遇に困るものである。何日くらい保つのかは分からないけれど、向こう2日くらいで片付けてしまえばいいだろう。生菓子の生をそれほど重んじないでおきたい。小学校の第何学年の時だったか忘れたが、夏休みの自由研究でカイワレ大根の種を発芽させた事があった。ちっちゃい器にガーゼを敷いて、検体ごとに塩分を0.5%、1%、……と変化させて何%から発芽しなくなるのかを調べたのだ。塩だけではエビデンスとしては弱いと思ったのか知らないが、確か「酢」というサンプルも設けたはずである。1週間かそこらに渡って、観察した。結果を全く覚えていないが、日に当てると緑っちいしょぼしょぼな芽になってしまった事を覚えている。というか、カイワレシリーズはだいたいそんな感じである。日の光に弱い。また別の意味で適材適所だったのだ。カイワレ大根には、適所が冷暗所だった。日向で咲かなくてもいいから、というか夏に日向で咲くと暑くて叶わないだろうし、冬に屋外で咲くと寒くて嫌になるだろうから、咲くなら冷暗所で咲きたいな、と思った。

ダンプカーは英語でtip carらしい

ごま鍋のスープを沸騰させると、液中のごま成分が凝り固まって水面におがくずのパレードが出現して面白い。やり過ぎるとカスカスしたごま粒子が鍋にこびりつくので楽観してはいられないのが欠点だが、鑑賞に値するものでもないので別に良い。机に向かう時のための椅子の他に、台所にもう一つ椅子が置いてある。机から台所まで歩いて10歩もないので椅子が全く不要だと思わなくもないが、もともとある程度汚れる前提の台所で料理してそのまま食べるので、汚損の機会が減っていいものである。団欒とかないし。ごま鍋の腐った生コンみたいな色を見て、小学校の裏門を出たところにあるドブの匂いを思い出した。いつも流れが死んだように淀んでいて、浅く黒が堆積し、触ったら膜が丸まますくい取れるのではないかと思える、白く日に照った油が張っていた。異臭のするものはおよそ何でもそうだが、どうしたらそんな匂いが生成されるのかと問いたくなるような刺激的な腐臭を発していた。私はそこを通ってはいなかったのだが、ドブに満ちた側溝はある地域の通学路の一部であり、たまに校外学習で裏門から出発する事があると、何という事もなく子供心にそそられるものがあって覗き込んだ。様々な化学変化を経て、もはやオリジナルの物体が分からなくなった吹き溜まりは、べったりと記憶にこびりついたままだ。歯ブラシを取っ替えたのだが、新しい歯ブラシを口に入れるたびに、古い方の毛がいかにヘタれていたのかが分かる。歯ブラシの毛なんて、相当程度経たないと劣化が目に見えないものだから(ものすごく放って置かれていると毛が黄ばむ)、ひと月ふた月程度では気にも止まらない。おニューの歯ブラシは、薬局で「かため」のブラシを探したところそれしかなく仕方なしに購入したちょっと値段の張るいいやつなのだが、口に入れて唇をすぼめた時に当たる部位がこれまで使ってきたモデルと比べて格段に太く、異物感がすごい。ヘッド部の柔軟性を実現しようとしているのか知らないが、うにうにとウェーブ状のシェイプになっていてボリュームがすごい。じきにこの太さにも慣れて、次に細いネックの歯ブラシを買ってきたら細い細い物足りないと言い出すのかもしれない。頼まれた仕事が終わったのでとりあえずひと段落したものかと思ったら、また変なタイミングで不穏な知らせが飛び込んできた。目の前に氷塊が迫ってきてから警笛が鳴るような船には乗りたくないのだが、遠洋航行はそれが叶わないものだから大変だ。

冷凍イカ筒とマカロニの形状は似ている

意識が聡明でも澄明でもなく、鼻の奥に煙が渦巻いているような倦怠感が身体を包んでいる時、この不透明さの質感に似た何かがあったはずだとずっと思いながらも呆けてやり過ごしていたのだが、この虚ろに反響する豆腐の独房みたいな感じは、冷凍イカに似ているとさっき気づいた。冷凍イカをまじまじと見た事があるだろうか。カチカチに凍ったやつではなく、解凍が進み、端の方に透明さがほんのり宿って白く濁った汁が滲み出つつも、核の方ではまだまだ霜のような白が残っているあの状態である。辛うじて覗き込める、泥の踊る水溜りの底を窺うような、高い密度で身を寄せ合った煙を見通しているようなこの意識の沈殿は、象徴的に、溶けかけの冷凍イカの色と質感にとても似ているのだ。あと、安いイカは噛み切る時にどっちつかずの歯応えを返す。ぶりゅん、ともぶちっ、とも返さない。ただ、何かの物体を歯並が通過した事だけが感覚される、ものすごく危うく儚い感触だけがうっすらと意識できる。底の空いたバケツで色のないエーテルを延々すくい上げるような虚無感に頭の中が支配されている時、そんなイカの質感とか、水とシルトを練り合わせただけみたいなほどけ方をする冷凍グリーンピースの舌触りとかを思い出す。昨日、業務用のマカロニサラダを買ってきた。1キログラムもある、でかい袋にパックされたやつだ。これで人の頭を殴れば、頭陀袋がまさしく鈍器として機能しうるように、業務用マカロニサラダの袋でも人を殺せるはずだと思えるほどに、マカロニサラダとは思えない重量をしている。おそらく、これを4つくらい重ねてしまえば、枕にもなる。それほど実(じつ)の伴ったアイテムなのである。バイキング形式の店で、サラダコーナーの隅っこで、ほとんど手垢をつけられず佇んでいるマカロニサラダが好きである。同じ競合枠にいるポテトサラダのどちらがより人気があるのかは知らないが、どちらも「わざわざ食べ放題の店に来ているのにあえて食べるものではない」という点で一致している。だから、何の打算も持ち合わせない子供くらいしか、取り分けているのを見た事がない。私は、どうしてか、毎回僅量ではあるが食べている。水のようにただれたマヨネーズと、一体何で組成されているのか分からない小麦の筒が寄越す、実体を持った粗雑なマヨネーズの味を感じると、ほんの少しだけ落ち着くような気がするのだ。白い愛嬌を垂れ流して、こちらに媚びた視線を送る何かが確実にそこにある。

一家に一台あるかどうかは場合による

冬の盛りではなく、萎みかけているこの時期に、手が荒れ始めた。指の背が割れたり炎症で腫れたり、様々不快要素は尽きないけれど、寝つきがものすごく悪くなる。お布団に入って、ニベアを塗って、さあ寝るぞと目を瞑ると、ぬくぬくになって良好になった血流が四肢末端を襲い、猛烈に指が痒くなる。とても文字では書き表せない、悶絶と苦悩の末に脳が白く焼き切れそうになって身体が編み出した痒い部位の掻き方がある。痒い部位を掻くとなおの事痒くなるのは人類に広く知られた真実のひとつである。痒さが痒さを生み、痛みが痒さを呼ぶ。ただ両腕の先っぽに付いているだけの細い肉がゆえに、全然眠れず寝返りをうちまくる。やっと寝られたかと思うと、眠りの淵から意識が浮き上がってきたほんの一瞬に、手の痒みを自覚して薄氷が割れる。要するに、すごく痒いのだ。どこかにぶつかるだけで痛いし痒いし、常時の1.2倍くらいのサイズになっている。第二関節くらいまで血の気が差しまくっている。掻いてはいけない、掻いてはいけないと、その忍耐の先に一切の悟りが保証されていない不毛な坐禅を強要されている。痒い。ある建物のガラスに、「アルバイト募集! 時給1085円」と書かれた紙が貼ってあった。場所と職務内容にしてはちょっといい額だな、と思って、詳細を見てみようとした。でっかい主要情報の下に、ちまっとした文字でこう付け加えられていた。「〇〇時から。それより前の時間はー100円」とある。掲げられた時給で勤務できる時間はほとんどなく、実質は注意書きされた方の985円、都最低時給ギリギリであるにもかかわらず、額面だけで飛びついてくる数を増やそうとしていた。端的に言って、セコいと思った。やり方がこすい。こういう事を臆面もなくやるしたたかさが社会で生きていく上で必要なのかもしれないが、にしてもセコいなあ、と思ったし今だにセコいと思っている。まいばすけっとの求人ホワイトボードみたいに、時間帯ごとに時給が違うと分かりやすく明示すればいいのに。グーグルマップで家の周辺をちらちら覗いていると、そう遠くないのではないかと思える距離に肉のハナマサがあった。西友のカスみたいな肉には嫌気が差していたので、散歩がてら行ってみようと思った。途中立ち寄った本屋で、なぜか缶ビールを配っていた。何だったんだろう。コミック売り場を見て、やっぱりエロ漫画はそういう筋の店に行かないとないんだな、と思う。そして、地図から想像したよりもハナマサはずっと遠かった。ちょっと行きつけるには現実的ではない距離にあった。でも、買って帰ってきた鶏肉は美味しかった。肉は肉屋。

ちっちゃい紙パック飲料のストローを吸う時の独特な寂寞

味の絶妙な微妙さに腰が引け、なかなか手を伸ばす気が起きなかったがしかし着実に開栓日からカレンダーが遠のいていくので品質が心配になり、鯛味噌を食べきった。一週間くらい冷蔵庫の中でラップを被って放置されていたはずなのだが、相変わらず西京味噌のしょっぱい所だけを暴力的に濃縮した味がした。しばらく冷蔵庫の中で安置され水分が飛んだからだろうか、ファーストコンタクトの時よりもねっとりとろりとしていて、面食らった当初よりは成分の観察が可能になり、このつぶつぶ? ただの味噌にはおそらくありえないだろうこのつぶつぶ? みたいな? パーティクルが? 鯛そぼろなのかな? と推察された。真にその答えが真であるかどうかは分からない。一度、鯛を入手して手ずから味噌を作らなければこの答えは出ないだろう。電車がわちゃわちゃに混んでいるのに、昇降口横に陣取って彼女を包含する男がいて、めちゃくちゃに邪魔でめちゃくちゃに遮っていた。腕を回してお前が守っているのは女ではない、腕を回す事でお前は周囲の乗客を敵に回している。ひいては女を危険に晒している事になるのだ。すげぇ邪魔だからよく分からんメンツを保ってかっこつけようとするのやめろ、と振り返った今になればどうとでも言えるが、実際的に数十秒もない乗り降りの刹那においては、ただひたすらに邪魔である。レースゲームのおじゃまブロック系アイテムがリアルに変換されるといかに触るものであるのか、生きた教材を目にして学びを得たと前向きに捉えておいた方がいいような気もするし現実から目をそらしているだけのような気もする。都会は母体が広いから、必然的に目撃する機会が多いだけで済む話かもしれないけれど、数日前はでっかい駅の地下通路、人がわんさと溢れかえる中で、柱にもたれかかってチューするの、しないの、んー、どっち、えへへー、べたべた、みたいなイチャつき方をしているのがいて、二人だけの世界を構築する能力が卓越しているなと思った。そのすぐ近くではホームレスが駅を封鎖される夜中までの時間つぶしに吹き溜まりで寝っ転がっていて、現象のこういう隔絶を見ると頭がくらくらする。左と右で全く別の世界線が展開されているようである。地上にあがると、いつものようにコンタクトクーポンを配る人がいた。普段は何を考えているのかさっぱり察せない笑顔をうっすら浮かべて立っているだけで何もしていないおじさんが、今日はにっこにっこして道行く人にティッシュを差し伸べていた。何か言っている。聞こえない。耳を澄ます。「取ってね。取ってね」ぞっとした。

ペットボトルの端で指を切る災難

米を炊き忘れていたので、朝起きたらご飯がなかった。仕方ないので、冷蔵庫の中で静かに賞味期限を超過していた生卵をフライパンに割り、同じく、正確には記憶していないし記載も確認していないが賞味期限が切れていたはずのソーセージを並べて食べた。主食も副菜もない、ただフライドエッグと火の通ったソーセージだけがあった。イギリスのどっかの大学寮に泊まった時も、こんな感じの朝ごはんだった気がする。大体どのメニューを取っても油でてらてらしているのだ。あれを食いつけていると太るだろうなと思うし、実際太って帰って来た人も知っているが、太っていない人もいるので一概には言えない。いつ送ってもらったかさっぱり忘れた米のダンボール箱の中に、到着以後ずっと今日まで放置していたポテトチップスの袋があった。袋の中に何枚もポテチが入っているので、ポテトチップ「ス」と複数形のsがついているのはまあ納得するけれども、しかし単数形で指して「ポテトチップ」という場面は一度もない。今までもなかったしこれからもポテトチップチャンスはないと思うが、ポテチのにょるにょるした脂が苦手なので、どうにも食べる気が起きず放置していたのだった。とはいうものの、買って来た海苔天(海苔の片面だけに天ぷら粉的なものをつけて揚げたもの。カロリーと塩分が身体に喧嘩を売っているおつまみだったが、何も考えず美味しい美味しいと思って食べる分には美味しかった)やいか天(どこにいかがあるのか発見した試しがない)はすでに食了してしまっていたから、変に空いたお腹を満たすには家の中でそれしかなかった。他には、頭を巡らせてみても、わかめを水で戻して食べるくらいしか選択肢がなかった。結構な量の乾燥わかめが残っているので、水で相当な量に戻してもちゃもちゃわかめをむさぼり食べても悪くはなかったと言えなくはないが、醤油とごま油くらいしか適合しそうな調味料がない。豆板醤としらすくらいあれば考えたが、単一の味がするぬめぬめした物体を一心不乱に口に運べるほど剛毅な精神をしているわけではない。固形物で、「あー、なんかモノを食べたな!」と実感できるような食品を欲していたわけだ。そのような食品を欲する事が多いから、するめかいりこか、一粒でしばらくの間が持つような食べ物でも今度買ってこようか。でも、間食をすると身体のリズムが分かりやすく崩れる。人の金で、2時間1800円くらいのクソみたいなバイキングに行って生の質を落としたい。

廃棄食品ゴミの中から食べられる部分をスコップで掘り出す仕事がある

どちゃどちゃと人が行き交う往来で、ティッシュ配りがコンタクトのクーポンを配っていた。配っているのは通りがかるたびに目にしているので、それは間違いなく事実として知ってはいるのだけれど、そういえば、あの中身というかおまけが(むしろそちらが本体だろうが)実際のところは一体何なのか、もらった事がないから分からない。お得なクーポン券配布してまーすと言いながら配っているので、まさか大嘘ぶっこきながらティッシュを配っているとは思えない。多分本当にクーポン券が入っているのだろう。どんなクーポン券なのかは知らない。そのティッシュ兼クーポン配りの人が、ついついと人通りの動線から外れ、道端に移動した。体調が悪くなってうずくまるわけでもなさそうだし、どうしたのだろうと思って注視していると、懐からもぞもぞとペットボトルの水を取り出して飲み始めた。別に、配っているストリートのど真ん中でストリート給水を見せつけてやればいいではないかと思ったのだが、通行の邪魔にならないようそうしていた。ただでさえ99パーセントの通行人に無視されて、相手にされず、メンタルが少なからずささくれだっているだろうに、普通の生命活動さえ道の真ん中で堂々としてはいけないのかと悲しくなった。生命活動の瞬間は、単なる路上の障害物に成り果てるようだ。夜の変な時間を越えると、信号待ちの車がさっぱりいなくなる区画があり、瞬間がある。特段綺麗でも汚くもない、のっぺりとざらざらの中間みたいなアスファルトの表面がずうっと通りの向こうまで続いていって、ビルの白い光につやつやしているのを見ると、あまりの茫漠さに何かの気持ちを抱く。名前をつけるのが難しいが、その光景を、布団の背骨をぎゅっと折りにかかるように、抱きしめられたらなと思う。味も匂いもなく、伴って漂う要素がひとつもないからっぽな景色がそこにあって、寝転がって朝まで過ごしても風邪を引かないのではないかと思ってしまう。たまに見る、密度の隙間を目撃した。脇で話を聞いているだけで、いろんな人がいろんな事をしていろんな事が起こっているものだと思う。視力とか聴力とか、そんなたかが知れているものの索敵範囲外には、ぞろぞろと事物が生起していて、それが巡り巡って害を為したり何もしないまま、感知しないままに消えていっているらしいのだ。伝え聞いた話が、伝達者の豊かな妄想によるものであれば、と願ってやまないのだが、現実の豊穣とその物量の前にひざまずくしかない。

一生、冷めてしなしなになったコロッケの衣しか食べられない体にしてやる

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濃縮するとコンデンスミルクだが、薄めるとどうなるのか?

残滓の残る夢を見た。ボブスレーをしたり、なんだかやたら先細りで細長い乳首の女の子のおっぱいを吸っていた。甘かった。夢の中のイメージって、頭の中で見たままおよその所をイメージのままで留めておく分には違和感がないのに、字面に起こした瞬間から途端に異物感を湛え始める。書けないレベルに属する他の要素もモリモリだったのだが、恥ずかしいので書かない。人間の脳味噌は、いらない事を覚えていて、いらない時に引っ張り出してくる。昨日の買い出しで、おつとめ品ワゴンにまたまた中華まんの袋があった。412円+税の6個入りって、あんまり安くないような気もするのだが、そんなに毎朝毎朝代わり映えのしないメニューを食べていると、ただでさえ不調を訴えている頭が本格的に抗議のために薄靄をかけてくるので、たまにはいいかなと思って買ってきている。前は肉まんの方が美味しいなと思ったのだが、今朝はピザまんの方が美味しいなと思った。ピザまんは鼻血を拭いたティッシュを水につけた後みたいな色をしていておジャ魔女どれみのオレンジ色のアレを思い出すのだが、うめうめと思って中身を見聞してみると、緑色の塵みたいなものがトマトとチーズの泥濘の中に淀んでいた。パセリかバジルか、なんかそんな感じのやつだろうと思って成分表示を見てみると、香辛料としか書かれていない。どっちの緑色の草なのか、そもそも選択肢としてこの2つが正解なのかどうかも分からなかった。香辛料は、とてもすっきりした構成の言葉である。「香」ったり「辛」かったりする材「料」という事で、大変無駄が少なくスリムな成り立ちだ。料はそうでもないけれど、香辛の2文字は左右対称っぽいのでそこも綺麗だ。歩きながら中華まんを食べたい。がんもどきは、食べ物として、見た目からディスアドバンテージを抱えていると思う。梱包材の、灰色をメインとして様々な色の糸屑が圧縮された、NHKの英語教育番組のケボとそっくりなあれを思い出す。黄色をメインに、ちっちゃい人参とかちっちゃいひじきとか、よく分からないプロセッサ済みの食材が所々から顔を出していて、お世辞にもスタイリッシュではない。竹輪は斜めに切るとシャープにエッジが立つのでトタンみたいでダサいとは一概に言えないが、がんもどきはどうしようもないほど、どうしようもない。でも美味しい。人が見た目によらないように、食べ物も見た目によらない。でも、がんもどきのかっこ悪さは、どうしても考えてしまう。