他愛がない

めぞうなぎと申します。文字の話です。日記が置いてあります。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

ノーモア文学

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唐突に失礼します。今日突然公開されたので、危うく用事に向かうのをやめてしまうところでした。とんでもなくいい歌詞です。僕の葬式で、弔辞にしたいくらい。

 

結論まで長いので先に書くと、音楽をやっている人にどうしても聞きたいことがあります。

音に言葉が乗ってるんですか?

言葉に音がついてるんですか?

僕は後者です。だから、好きな音楽は歌詞で決まります。そもそも、歌なんて音が伴ってる時点で反則なんだから、曲がいいのが当たり前で、そこにどれだけ洗練された歌詞を乗せられるかの勝負じゃないのか。音に甘えて言葉を蔑ろにするな。と、文学側の人間として思っている。

 

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頃合いとしてちょうどいいので、僕が擁卵し続けていることがある。そのことについて書こう。昔書いたが、放ったままになっているのもかわいそうだし。

 

僕は文学で育った。十代半ば少し手前くらいまで、音楽なんて文字通り一切興味がなかった。ただひたすら本を読んでいた。今でも本を読むのはやめていないから、思考の基本に文字がある。どんなことも、一度文字に落とし込まないと気持ちが悪い。

十代半ば少し手前で音楽に出会った。部活の先輩の影響でボーカロイドを聴き出した。それ以降の流れをあまりよく覚えていないけれど、中学2年生の春休み頃、家の前の河原を散歩しながら、衝撃を受けた鬱Pの『骸Attack!!』を赤飯が歌っているのを真似していて、デスボイスを修得したのは記憶している。あの時偶然出せていなかったら、今も本しか読んでいなかったのかもしれない。

部活は美術部だった。何か作りたかった。絵はそれほど描けなかったので、立体とか作っていた。絵で表現できることに憧れがあった。変化球ばかり投げていたような気がする。

 

多感な時期をとにかく勉強して本を読み、残りの時間に何をしていたのかよく分からない。部活は通い狂った。多分この三点倒立しかなかったんじゃないだろうか。

 

高校の修学旅行で、相部屋の友人の一人が音楽に通じていた。正確な言葉遣いは覚えていないけれど、半泣きで「音楽に比べて文章が伝わらなくて悔しい」みたいなことを言ったはずだ。

 

本題。

芸術を下位区分すると、基本的には音楽、絵画、文学の3つになる。少なくとも私の場合。舞踏とか、馴染みがないからここでは外す。入れたとしても、結論にさほどの影響はない。

 

文学は、他の二つに勝てないのではないか。

 

音楽は、流れていれば勝手に耳に入る。絵画は、置かれていれば勝手に目に入る。受け手の能動性が必要とされない。

文学は? 印刷されていても、読んで意味を理解して筋を辿るという、いくつもの工程を経なければならない。半端ではない能動性を要求している。

文学が必要とする享受者への能動性は、今の時世ではなくてもいいものになってしまった。

今、カルチャーの流れが文学に向いていない。音楽も絵画、もう日本の文脈では絵画と漫画アニメが限りなく接近している気もするけれど、大きな塊がある。ライトノベルも、もとからアニメ化が当然のものとして措定されている。アニメ化やコミカライズは祝われるが、ノベライズは全くと言っていいほど聞かない。文学が他の二分野に内包されつつある。

文学に、訴求力がなくなってきている。もしかして?

そう思ってから、僕の関心は文学から文字に少しづつずれている。フォントに興味を持ち、字面の韻文に興味を持ち、物語の筋より言葉遣いのショートショート的側面の連続に興味が行くようになった。

これはいいことなのだろうか?

分からない。

そもそも、絵画と漫画の区別をどうつければいいのかも分からない。硬派な意味での絵画も、硬派な意味での文学側に寄ってきているかもしれないし。

ただ、今でも僕が筒井康隆『狂気の沙汰も金次第』を読んでぶっ飛んだのと同じように、文学で誰かをぶん殴りたい気持ちがある。精神の基礎を形作ってくれた文学への恩返しとして、いつか文学に月桂冠を授けたい。

 

余談にも程があるが、言語的側面に傾倒した僕の中で各分野聖人を一人づつ挙げると、

音楽:鬱P

絵画:いちはや

文学:西尾維新

となる。

あなたはいい曲にいい歌詞を乗せられるか。

あなたは「お兄ちゃんと不思議のちんちん水」というタイトルを考えることができるか。

あなたは徹底的に文字に溺れ、戯れることができるか。

字聖。