他愛がない

めぞうなぎと申します。文字の話です。日記が置いてあります。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

消化自愛

いつもいつも、書こうと思っていることを忘れるんですよね、鍵盤叩き始めると。普段言いたいことが、あんなに……。あんなに……。あったような……。

本当に伝えたいことは、物を作っている時に細切れで出てきていて、こういうデブリの垂れ流しみたいな場所では「勿体ない、勿体ないやろ! そんな大事なことここで無駄につこうたらあかんよ。もっと文脈と言葉づかいで意味を最大化してやらな可哀そうやろ」ということなのかも。文脈による意味の最大化は、僕的にはかなり重要なタームなんですけど、他人に語って伝わったことがないのでしゃべりません。皆さんの中で咀嚼してください。

今でも覚えている学習参考書のはしがきの一言があって、確か伊藤和夫の『英文解釈教室』みたいな本だったと思うんですが、これもね、ボリュームの割に値段が安くて中身が濃くてよかったんですが、僕には濃すぎて途中で放りました。あれを極めるくらいだったら他の勉強した方が僕には都合がよかった。

その本の著者前書きに、「この本で勉強したという事実をあなたが完全に忘れて記憶の底に沈んで思い出さなくなった時、初めてあなたはこの本のすべてを学び体得し終えたことになるのです」(大意)ということが書いてあったんですね。読んだ当時も立派なこと書いてるなこのおっちゃん(既に故人だった気がする)と思ったんですが、今でも折に触れて思い出すにつけ、非常に的を射た一言だな、と感じます。

今まで関わってきた人全てを覚えているわけではないし、音楽や小説や絵画や、精神面を耕作してくれた創作物一切合切を「これは自分のこういう所にこういう風に影響を及ぼした」と分析できるわけでもなく、渾然一体となった受容物が、脳内の胃液に溶かされて区別がつかなくなって、ひとつの栄養というくくりになって沁みていく。時に排泄されていくこともあるし、時には消えない痕を残して一生残り続けるものに出会うこともある。そんな流れの中で、学習参考書って確かに、読み書き等の基本的な手習い、その向こうにあるものへの梯子、渡し船みたいなもので、遠くに行けば行くほど振り返って目に収めるのが難しくなるものです。小学校や幼稚園保育園の先生を、余さず思い出せますか? 何を言われたか何を諭されたか、そのうち何を取り入れたのか?

呼吸するように誰か何かを取り入れ、しゃぶって進んでいるんですな。

時折思い出す面白い話の筋も、何の本で読んだのかいっそ思い出せないなんてざらだし。

なので、僕のことも早く忘れてください。