他愛がない

めぞうなぎと申します。文字の話です。日記が置いてあります。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

上下左右乱高下急降下上昇右往左往停止

ずっと聴いていなかったけど、Scars on Braodwayを流しながら日記を書いてみる。

ダロンはすごい。ポップで殴る、という難しい事をやっている。

ポップで殴る、っていうのはすごく難しい。

誰もに届きやすいようにしながら、自分のやりたい事をしっかり盛り込んであるという事だから。

ポップになれなかったから、ポップに克服しがたい劣等感がある。それでポップに殴り込んで、ポップを変質させてやろうと思っていたりする。鬱Pのやっている事もすごいなあと思いながら見ている。

方向性とか含意が変わってしまうかもしれないけれど、「針入りのおはぎ」みたいなものなんだ。嬉しそうにかぶりついて、ハッとして欲しい。

ものを作っている人には、多かれ少なかれそんな気持ちがあるんじゃないかな。

全てのコンテンツを、まずは「使われている言葉」で判断してしまう悪癖のある私は、System of a downの詩を読んだ時にびっくりしたのだ。高校生だか中学3年の時だったか覚えていないけれど。最初に買ったのは『HYPNOTIZE』だった。

こんなにするっと入ってくるメロディに、こんなにゴツい歌詞を載せられるのかと思った。

あの驚きをこうやって解釈できるようになったのは去年くらいで、ずっと「すごい」という不定形でしか捉えられていなかったけれど。その解釈が万物に及び、鬱Pがもっと好きになったりしたけど。

その為には、持っている言葉が外を向いていなければいけないんだろうな、と思っている。

いくつかの言語を勉強しながら感じることがあって、私は会話表現とかが全然頭に入ってこない。というか、本を読んでいても内容が頭に入らない。字面を追うだけで、終わる。物語は嬉々として読めるのに、学術書とか新書とか自己啓発書とか、方向性がはっきりしている文章は読めるけど内容理解がとても難しい。

フィクションが持っている矢印は虚偽のものだと思っているから、こっちを向いていない、こっちを意に介していなくて、だから放られた第三者として楽しく介入できるのだけれど。

こう、こうなんですよ。と主張する本が苦手。

日に日に持っている言語能力が内に閉じていくのが分かって、他人と何を話せばいいのか分からなくなっている。挨拶さえ意味が分からない。挨拶は会話への足掛かりで、でも会話をしないのなら挨拶もなくていいじゃないか。

不健全な塞ぎ込みが四方八方を閉ざしていく。どこも向いていない虚像と戯れる束の間の喜びに、藁の束にも縋る思いで寄りかかっている。

フィクションに矢印を感じるようになったら、どこに行こう。

最近ダロンが表に出てこないのは、そんな気分じゃないから、らしい。

核弾頭のスイッチを押すのは、本当は黒子なんじゃないか。