他愛がない

めぞうなぎと申します。文字の話です。日記が置いてあります。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

優しさのピント

さっき雪見だいふくほうじ茶味を食べたのでものすごく寒いのだが、雪見だいふく雪見だいふくなので大きく外れて不味いという事はなかった。ほうじ茶だと言われれば確かにそうだと思わせる程度にはほうじ茶の味がした。ほうじ茶味を売りにするのは全く別に構わないのだが、それとは別の話で、ちゃんとほうじ茶を普段から飲みつけて舌にほうじ茶の基礎的な識別感覚が備わっている人はどれくらいいるのだろうかと思う。もう急須でお茶を入れるなんて年に一回あるかないかくらいの時代になってしまったし、薬缶で沸かしたお湯に入れるお茶パックは烏龍茶のそれだ。サッポロポテトフォアグラキャビア味とかが発売されても、ふ〜ん、これが大体フォアグラとキャビアの味なんだと思ってしまうだろう。だって食べた事がないからだ。経験を有さないものに対して正確な判断を下す事は極めて難しい。ほうじ茶はそこまでハイソなものではないので、分からないでもなかった。昔ほうじ茶パフェを食べたような記憶があるのだが、まるっきり真っ赤な嘘かもしれない。ほうじ茶の苦みと甘みが同居した味は、パフェに向いていると思う。味はそうだとして、パックの蓋をぺりぺり剥がした裏に書いてある文言、これが極めてよく分からなかった。要約すると「一日のうちに心を落ち着ける時間を作って、是非その折に雪見だいふくほうじ茶味をどうぞ」という事だったのであるが、このメッセージは第三者が要約するから伝わるのであって、一次文献としてのパッケージに印刷された文言どもは、丁寧さとメッセージ性だけが先走り、日本語として空中分解し遊離した奇異なものに成り果てていた。言いたい事を優しそうな毛布に包む事に腐心した結果、心のどこにも刺さるエッジがなくなった、ふわふわした何かでしかなかった。言いたい事は伝わるのに、それが文章に基づいた解釈では得られないという気持ちの悪い経験をした。今度スーパーなりコンビニで見かけたら、どうぞ蓋の裏の怪文書を読み解こうと努力してみていただきたい。よく分からん。朝の外気を浴びると、これはもう外套を引きずり出さないと冷気が本気を出した時にはもう手遅れだぞと思うのだが、肝心の外套は引っ越しの時に押入れの最上段一番奥に、めちゃくちゃ重いのをなんとか押し上げたダンボールの奥底に敷いてあるものだから、取り出すのが億劫で億劫で仕方がない。高校の時、厳寒も厭わず体育の授業に半袖半ズボンで出席していた事を思い出す。体育教師に、こんな寒いのになんでそんな格好なのかと聞かれて、「これだと生きてる心地がするからです」という返答をしたのは覚えている。