他愛がない

めぞうなぎと申します。文字の話です。日記が置いてあります。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

土気色に干からびたオタマジャクシに見える

「ご飯のおかずを10個挙げなさい」と言われると最初は面食らうに違いないが、一過性の思考麻痺が沈静した後にはぽつぽつと頭の中に候補(回答)が出現してくるに違いない。納豆があり、ふりかけがあり、海苔があり、目玉焼きがあり、塩鮭があり……。色々発想できて面白いかもしれないのだが、この間スーパーで「ご飯のお供」棚を見ていた。味噌や醤油、米の売り場と近接しており、人手が他と比べて恐ろしく少ない場所である。最寄りのスーパーにおいて、最も夕張市に近い状況にあるエリアである。ラックにかかっている米虫除け唐辛子アイテムなど、現代においてどれだけの価値を持つのだろう。そもそも、米櫃という物体自体が、役割を果たす機会がどれだけ発生しうるのか。もしあるとして、その上で米虫がとぉっても嫌だからこれを入れとこう、みたいな感覚まで至る人は、どれだけいるのだろうか。タンスに入れておく虫除けもそうだが、ああいった「パッケージから既に経年を感じてしまうもの」について、これからの行く末がいつも気になっている。これからも細々とニッチを満たし続けて生き長らえていくのか、そのニッチが多数派の間で大陸プレートの間に挟まれたスーパーボールのようにぷちっと潰れていなくなるのか。プラスチックのガワの中に、おもちゃみたいなお餅が入っている鏡餅がいつか正月を席巻し、本物の鏡餅は肩身狭くうっすらと命脈を灯していくだけになるのではないか。かつての姿がちらつくと、今の姿がどうしても同じ土俵に上がってきて、頭の中で一方的に小突き始める。おい、おい。なすがままにされるしかないかつての姿は(なぜならかつての姿なのだから)、目に涙を湛えたまま、身体を不自然に強張らせたまま、ぷるぷる震えている。感情が閾値を超えると爆発する機構がこの世には存在しないので、ただ溢れていくそのなみなみと垂れる雫が目の前の飯を湿らせる事を甘受しながら今日の糧を食うしかない。さっきもいできたばかりの実でさえ、雫の澱ものでたちどころに傷んでいく。もう、体内に蓄積された過ぎ去りしものを栄養として消費しつつ、壊れた腹から出ていくばかりの水分を見送るしかないのだ。言いたかった事からものすごい脱線をしてしまったが、ご飯のおかずコーナーで、たらこや鮭フレークに混じって、「さばそぼろ」なるアイテムを見つけた、という報告をしたかったのだ。さばなので、ものすごく色が汚い。えっ、もう傷んでるんじゃないですか、と戸惑う。他に比べて全く手に取られた形跡がなかったので、実食後、こいつの実態をここに書きたい。予想より上、かもしれない。