他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

天ぷらの代わりにお好み焼きを蕎麦に乗せる

何を見てそんな事を思ったのか忘れたが、「本と文章は別のものなのではないか」と思った。活字になる前、テキストとしてただ存在しているふわふわしている、言葉で内容を想念させるのが文章で、それが物体に着陸したものが本なのではないか、という事のようなそうでないような気もする。本になると版組されるし字体という衣装も着ているし、紙の色味や本自体の重さでバイアスがかかる。その服の向こうにどんな裸体が隠れているのか、見えないじゃないか。見せろ、お前の原質を。ボディラインの微妙な凸凹に、無理矢理意味を見出す自由を与えてほしい。文章が好きだ。人の口から出てその場で立ち消えるような、ほんの一瞬、喫煙所を横切った時のような、そんな存在感だけを残して消えていってほしい。その意味で言えば、コントっていいなあ、と思う。浮石を踏みつけ続けて、向こう岸にぽんぽん渡っていくような危うさと、巧みに渡り切るスペクタクルのエンタテインメント性が両立していて気持ちがいい。過剰に纏ったキャラクター性が起こす衣擦れの音がいい。コントみたいな人生がよかったなぁ、と思う。思ってしまうなぁ。「笑われる」のいいなあと思う。笑えるのも大事だ。まだ少なくとも手触りの残っている前向きな感情がこれくらいしかない。消しカスを指でこね続けていると段々黒ずんでいくのと同じように、今手のひらの中でにぎにぎしているこれがしおしおと光沢を鈍くしているが、宝石の原石を磨いているのと同じ、これはこれをぺかぺかさせるための愛玩なのだと考えながらヒーリングボールみたいににぎにぎしている。魔法の粘土みたいに突然もにょもにょと形を変えて、私の生活を激変させるような、フィクションで出てくるような、外へ連れ出してくるなんかにならないかなと念じていると、日が暮れている。お前は何にもならないのかな、と手元を見ても、色もないし有形でもないし、ところてんで押し出して食べてしまって、なかった事にしようかな、の念が吸着されて汚くなっていく。家に帰ってバナナマンのコントDVDを観よう……ラーメンズのコントを久々にYouTubeで見返してもいいかもしれない。とりあえず現実から両足を遊離させるために、足をバタバタさせるのか、手をバタバタさせるのか、酸欠夢遊状態になって口をパクパクさせて絶死手前まで行ってお花畑をちらりと伺うのか、なんかもうどうすればよいのかほえ~。まだ雪が降ってないな。