他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

スリーコインで書けるレポ記事なんだから、編集部に優しい

「ねぇねぇ、おにいさ〜ん、全くのノーリスクで『死んだ体験』できる装置があるんだけど、300円でやっていかな〜い?」というアヤシイ勧誘を受けたら、間違いなく300円払うだろうな、と思った。なんなら3000円でも、某夢のあるネズミの国よりは安いテーマパークだと思って出すし、30000円でも、人生でもう一度だけ、どういうわけかソープランドに行く機会なのだろうと納得して死んだ体験しに行くだろう。試しに気軽にスナック感覚で、さくっとふらっと死にに行くだろう。死んでみた体験のどの辺が「ノーリスク」100パーセントなのかはさっぱり分からず見当がつかないままではあるが、生きるにも何もないし死ぬのはなんかなんとなくイヤだし、という消極的生の二律背反から、このちっこい袋小路から小指くらいは出して死んでみた体験に金を払うだろう。そう、地の文で「死んだ。」と4文字くらいで済んでしまうような、そんな呆気なさと手軽さで、とりあえず目の前の光景と積み上がったゴミらしきものの残骸からエスケープし三途の川で真夏のバカンスと洒落込みたいのだ。まあ、遊びを知らないから賽の河原で黙々と石を積み上げては崩されるコーナーに入り浸りそうな気もするが、街頭で配っているポケットティッシュや「コンタクトのアイシティで〜す」と同程度に気軽に、一切の気負いなく100円玉3連コインで生をぶっこ抜かれるのであれば、即座に財布の紐をゆるゆるにしてしまうだろうな、と想像していた。私の中で、死ぬのは300円〜30000円くらいの価値を持つ行為らしい。もし死亡代行サービスみたいなものがあれば、私の場合、そのサービスに従事している人は30000円で私の代わりに死んでくれるだろうか。値段にあまりにも振れ幅がある。お年玉のしょぼい下限から豪勢な上限までくらいのスペクトルを残している。300円入れて死んでみた時と、30000円入れて死んでみた時とでは、死んでいる状態に見る光景は違うのだろうか。死後にも松竹梅があって、100円寿司があって、スシローがあって、カウンターしかない回らない寿司屋があるのだろうか。発想が俗っぽすぎる。死ぬのは脱・俗ではないのかな。魚肉ソーセージじゃなくて、ソーセージを食べられるようになるのだろうか。マーガリンではなくバターが溶け出す泉が、低脂肪乳ではなく牛乳が流れる小川が。発想が俗っぽい。いや、それ以前に、死んだ後の事も気になるものだろうか。300円払うだけなのに、頭を煩わせないでほしい。