他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

もし俺の目が節穴だとしても、せめて恥ずかしくなった時に入れる穴であってほしい

「年端もいかぬ少女」などと言うが、どこから年端にいくのだろうか。というか、加齢とともに私たちは「端」にいくのか。どこの端だ。真ん中にいる若者が、段々端に寄っていくのか。それとも、数直線が如く、ある端からまたある別の端まで行くのか。はぁ? と思ったが答えが出そうにないので、今度図書館に行った時にでっかい辞書をひっくり返してみないといけなくなった。好奇心とは降って湧いて出るものではなく、自発的に捕まえに行くものなのかもしれない。だとすれば、私の生活が殺伐としている事にも納得がいく。筋肉少女帯の『断罪! 断罪! また断罪!』というアルバムの一曲目は「おまけの一日」というタイトルなのだが(大槻ケンヂ自身のオリジナルなアイディアではなかったらしい)、それを思い出して、ここ数年の生きぶりは、毎日をおまけの一日のように生きているな、と悟った。それ以上は今言える事ではない。鳩が路上の何かをついばんでいるので、パン屑か何かかしらと覗き込んでみると、乾いたゲロだった。どういうわけだか大概のゲロに含まれている、色の薄くなったシーチキンみたいなあの固形物の部分をせっせとつついている。うえ、と思ったが、人糞も食べられる以上、胃液が混じって多少酸性に寄った結果幾分かは酸っぱいかもしれないが、嘔吐物も、確かに、消化される前に胃袋からパージされた食べ物なのだから、食べられなくはない。食べたくはないし精神的に食べられないが、実際問題として食べられなくはない。帰り道には、カラスがゴミを漁ろうとしてから実際に漁るまでの一部始終を観察していた。信号待ちをせざるを得なかったので待っていたら、ネットもかかっていない丸裸のゴミ袋に一羽のカラスが近付いた。寄っては返ししているので、こいつもしかして情緒不安定なのかと思われたが、全然違った。どうやらあいつ、人間が近寄った時にはゴミ袋に近寄らないようにしているらしいのだ。車やバイクが車道を走り、通行人が歩道をちょろちょろしている間は真上の柵に止まっているが、交通の絶えた間断を狙ってゴミ袋に半身をずぼっと押し込んだ。ここまで見ていると信号が青に変わったので後の事は知らないが、袋を食い破って多少の食べかすはくすねただろうと推察できる。逞しいし賢い。それなりに年齢の行った女性向けのボディソープが、加齢臭を「オトナ臭」と言い換えており、へにょへにょして妙なる感じの絶妙なフォントチョイスもあいまって、こちらも色んな意味で逞しいなと思った。