他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

想像の許す範囲が広がるのを許し続けるために

洗濯されてよれよれになり生地が伸びて十一分袖くらいになった長袖のシャツを着て大手をぶんぶん振って歩くにはずいぶん暑く感じる大気模様になり、従ってそれ相応の格好をせずして下手な運動をするような日向きではなかったわけだが、いくつかの長尺物をバラして運んで廃棄する行為に従事すると、埃に包まれてじんわりと汗のような薄膜が身体を包み、眠気が手ぐすねを引いているのが見えるようだった。ともかく、いかにそれが長大で広大で手に負えなさそうで重厚だったとしても、小さなところから、重箱の隅にアリンコが穴を食い破るように、ちまちまとしたプロセスを飽く事なく試みる忍耐と少しばかりの頭脳と、あとそれからそれなりの腕力があれば、大体の壁は何かしらの方法で乗り越えられたり、破砕できたり、くり抜いたり、そもそも壁に干渉しないで下に穴を掘って向こう側にトレスパスしたりできる事は経験則上知っている。ここで欠くべからざるは、その経験則を咄嗟の土壇場、火中の急にあって思い出せる理性的な沈着なのだが、悲しむべくはまだ小人物の欠けたお茶碗程度な器量である事で、場所の〆で関取が干す盃くらいのキャパシティは欲しいところである。もし、それを満たすほどの中身がないのだとしても。器量に関しては、大は小を兼ねるものだと思う。大きな器に中身が伴っていなくても、その器質は人の上に立つ事に向いている。いかな珍事瑣事大惨事に直面しようとも、それがよく分からないので笑い飛ばせるからだ。側(はた)で旗色を守る者は、その一見した豪傑さに救われる。顔を青くしているばかりではいけないと、色々な意味で悟らされるからである。何も分かっていないアホは、たとえアホだとしても、守りたくなるアホであればアホではない。アホは周囲を吸着した時点で化学変化を起こすからである。底が抜けていようが間が抜けていようが、そこには中身の詰まった人間には見えない向こう側の景色を提供する余白を持っている。もしかしたら中身がすっぽけて見えるのは、見えるだけで、そこには四次元ポケット的な空間が広がっていて、こちらの想像が許すよりも遥かな深みを抱いているのやもしれない。AfterEffectsのド初級教本を読み終わり、日もいなくなろうかという暗がりをぶらぶらしていると、この表現はああすればできそうだあの表現にはそれが必要そうだと、頭の中で新しいチャネルが開かれた感覚があった。世界が広がる感覚など、本当に久しぶりだった。