他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

ジャーマンポテトごっこ

前にもどこかで言ったような覚えがあるが、自瀆とは物凄い表現である。自分を冒瀆している。俺は自分をそんな風に処しているのか。冒瀆は、高い相手に対する侮辱行為である含みが強いような気がする。そこまで高い自分を持っているだろうか。せいぜい茶碗の高坏程度な気がする。でも、高坏がないと茶碗はグラグラして使いづらいからな。意外と捨てたものでもないのか。高坏を作るのは面倒だった記憶がある。微妙な乾燥具合の時にろくろに乗せて、金具のついた木の棒を持ってぴゃーっと削るのだ。灰色のうんこみたいな屑が四方八方に撒き散らされて、見ていて面白かったはずだ。粘土を捏ねると、なるほど粒子が細かいとはこういう事かと分かる。下に敷いた板がほんのり粘土色に染まったまま取れなくなるし、爪と肉の間に入り込んだ粘土のかすかすもなかなか取れない。ひとつに、あの場面に限っては、大は小を兼ねるなんて嘘っぱちである。この間、便利かと思ってでかいものを持ってきて逆に邪魔になってしまったと言っている人がいた。ケースバイケースである。服はやたらでかいと小をさっぱり兼ねない。金の額面に関しては、大金は小金を含むか。あれはどういう場面で生まれた慣用句なのだ。一応大きめのカバン持って行っとこ、くらいの場面しか思いつかない。適用する場面を間違えている気がしてならない。大は小を兼ねたい。遅めの朝食をとって、ベッドで掛け布団に挟まりながら日光浴をしつつ本を読んでいたら寝ていた。それはそうだ。寝ようとして取った姿勢と言われても何の反論もできない。本はそれなりに面白かったし布団は暖かかったし眠かった。総合的に、やはり低次生理欲求が勝った。でも、洋書は本当に読み進めるのが遅い。こういう時に、頭悪いなと思う。まあ、秀には秀のやり方があるし、凡には凡のやり方があるので、いちいち見上げていても仕方ないといえば仕方ない。見上げても見えるのはぱんつくらいなものだ。同じ地平に意識を注力し、透けブラなどに視線を向けていこう。何を言っているのかよく分からんくなってきた。野菜をいっぱい食べようと思って、人参と玉ねぎとじゃがいも、彩りのためのパプリカをしこたま切って鶏モモ肉をぶち込んだ挙句トマト缶を開け塩胡椒ハーブで味付けしたいい感じのトマト煮込みを作ったら、鍋が小さすぎてものすごい水位パンパン調理になってストレスがすごかった。味は良かったので、終わりよければ全て良しっちゃ良しである。全面的良しではない。部分的良しだ。