他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

玉ねぎとハサミ

チンカスの擬人化みたいな生活態度の一日だった。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、発泡スチロールの塊から、丸いユニットを一個だけ、ほじくり出すくらい、たったそれだけくらいは、まともな事をしたけれど、あとは、もう、茫洋の2乗みたいな漢字だった。冷蔵庫の中の食材整理とか、部屋の掃除とか、あったのだが。しようと思った事はしなくて、思ってもいなかったがしようと思い立った事は突然するので、自分で自分を御せないのは大変不便である。克己心とか、そういう問題なのだろうかこれは。克己心にはあまり自信がないが。帰る前に、見られるくらいにはして帰りたい。帰省のために、新幹線の券を買った。正直、母には伝えた手前、どうするか迷ったのだが、毎日これだけコロナが盛り上がりを見せている中で、ほんまに帰るんか? というところもあった。あったが、夏は夏で、今帰るのはちょっと……という理由で見送ったから、このまま放っておくとずるずると帰れなくなりそうだと判断し、帰る事にした。みどりの窓口の窓口の人が(畳語になっているが、場所を大まかに示してからの>窓口というその場所の中の特定の位置を書く、という順番にするとこうなる)、私もそっちに友達がいるんですけど、最近出るようになって大変だって言ってました、という話をしてくれた。あんまり、物を買う時に、売る側の人から必要最低限以上の話をふっかけられる事がないので、ちょっとびっくりしたが、言いたくなった事があればどんどん言えば、もちろんその前に色々適宜フィルターを通してから、いいと思う。このご時世に、余計な話をして飛沫が云々、とか言う奴がいたら、というかいそうなので世も末というか毎日世の末が更新され続けているような世ではあるが、そもそも相手にしないのがよろしい。人生を問題だとすると、そういう雑音は、検算でも下書きでもない、答案の要素に一切ならない、消しかす未満の存在であるからして、考えるだけ解答時間の無駄である。一日を、わたあめ製造マシンに砂糖を入れないまま割り箸をぐるぐるするような消費の仕方をした私が何をやっていたかというと、小林賢太郎の演劇と公演をずっと観ていた。『ノケモノノケモノ』を観た。これは、脱線を本筋に組み込むのが上手いな、と思った。脱線というのは、構成上のコンポーネント的に。全体の中で、雰囲気を害さないように、綺麗に入っている。それから、単独、あれは「ショー」と言っていいのかな、ポツネンを観た。身体の使い方、ものの見方使い方が本当に上手い。もうこれが劇場で観られないのか……と、残りの人生でずっと言っている気がする。

両手の人差し指と親指で四角を作る

私がドクソ下ネタを言っても怒らない(もう呆れて怒る怒らないの問題ではないらしい)後輩と晩御飯を一緒に食べたので楽しかったです。こんな人間で、本当にごめんな……という気持ちが1割くらいあるので、付き合ってくれて有難い限りです。本当は、先週の木曜日に、来週はいいタイミングだしケンタッキーでも食うか! みたいな話をしていたわけですが、ケンタッキー、さらにその他当日チキンを販売する系の店は大体、受け渡し専門になる事をすっかり忘れていて、どうしようもなくなったので、美味しい鶏料理が食べられる店に行った。美味しい云々、とか書いたが、外観から良さそうだなと判じていただけで、実際に行った事はなかったので、後輩は行った事があってよかったよかったと頻りに言っていたからまあハズレではなかろうと思い、しかも事前にインターネットにお伺いを立てたところ、予約状況もスカスカだったので、当日飛び込みでええかという事にした。19時前に行ったが、びっくりするくらい静かで、それもそのはず、私たち以外に客がいないからだった。本日はお日柄もよく、しかし社会情勢がよろしくなく、その結果として、そうなったのだろう。ある店では、来年3月を越えてもこのままなら、店を閉める事を考えなきゃいけない、と聞いたので、ちょっと不安になった。そして、ウーロン茶を注文して、「冷たい方ですか?」と聞かれたのも人生初めての体験だった。ウーロン茶、の、冷たい方? 冷たい「方」って何だ? 飲食店で〇〇な方、と聞かれた時は、〇〇とdichotomyにある何かの存在が想像される。それは、要するに。あったかい方があった。え、冷たい方があるって事は、あったかい方もあるんですか、と聞いてしまった。あった。あるのか。世の中には。あったかいウーロン茶が。いや、お茶はホットもクールもあるものだが、外食してウーロン茶を注文した時に、それは氷が入った、冷えた状態で出てくるものだと思っていた。なんと! 何度でも言うが、世の中にはまだまだ知らない事がもりもりあるのだ。席に来たグラスを包んでみると、すぐ手を離してしまうくらい熱かった。あったかい方! そして、あったかいウーロン茶は結構美味かった。というか、飯が美味かった。一緒にご飯を頼んで正解だった。特に鶏の炭火焼が美味かった。後輩はずっと美味そうに飯を食っていた。美味そうに食う。今日の発見は、まさに、世の中にはあったかいウーロン茶が提供される可能性がある、という事だった。

散逸集合地

包装の箱をほっぽり出したままにしたり、窓枠から落ちて散乱した綿棒を拾い集めずに散らばったままにしたり、部屋の中の散らかり具合が混迷を極めてきた。帰省する前には、掃除機と、買って来たのに開封すらしていないフロアワイパーくらいはかけておきたい。おきたい、とか言って、本棚を押入れにまだ設置していないばかちんが私なので、ほんまにするのだろうか、と他ならぬ自分自身で半信半疑、いや疑いが6、7割くらいある状態である。後でやるとめんどくさいので、買ってきた食肉はさっき小分けにして冷凍庫へGOした。年内は、冷凍庫にある分だけで食肉は足りるとか言っていたやつは、これもまた私なので、こいつバカなんじゃねえのかと思っている。本当に。買いながら思っていた。頭と身体は別の事を考えられる。幸いというか、残念な事にというか。今日は、「どうしようか」という命題をどうしようかと考えている間に、日が終わった。大変に下手くそなレトリックじみているが、これが真実なのだから仕方がない。どうしようかをどうしようか、ころころ転がして考えていると、不思議な事に時間がどんどん、ドライアイスもびっくりな勢いでなくなっていく。タイム・イズ・マネーというが、私はもしかしたら、世界時間浪費者ランキングでもいいところまで食い込めるかもしれないくらいスカスカだ。金を使わずして、その価値を費消させていくのが楽しいのかもしれない。また、言葉の字面だけで物事をいじくって遊んでいる。そういう事をする時間があったら、こういう事をする心の余裕がなくなると、まだ人格が千々になって、伸びて、割けないチーズを無理やり割いたみたいになるので、できるだけ無駄は許容して生きて行きたい。しかし、無駄を抱えてえっちらおっちら歩いていると、とろとろに溶けて実体を失いそうになるので、こう、いいバランスを見つけなければいけない。見つかるのだろうか。色々、自分の精神構造に対して自覚的というか、外部的な枠組みをもってして把握できるようになった年を思い出せば、今経験何年目、という逆算ができるのだが。生き延びるためのラカンがそうだったと思うが、あれはいつ読んだのだったかね。この前、象徴界現実界想像界を、人間から遠い順番に並べようと思ったら、分からなかった。想像界が、確か一番近い。で、残りのどっちかが、もう一方で濾過されて想像界に至る的な感じだったはずなのだ。現実界が、象徴界(言語)で加工されるのだったかな。もう、原型が怪しいくらいに自分勝手にカスタムしてしまったが、精神分析は本当にいい理論だと思う。

生える肢体

昨日は、午後から、人格が四散放埓迷走家出弛緩していて、頭部を起点にして、うにょうにょと、触手が伸びるように、一本の線から適当に線を伸ばすように、手の平をいっぱい生やしたような、何をしても落ち着かず、思考の本体がどこかへ行き、ばらばらになって、隙間から世界の向こう側が透けて見えて滲み出してくるような、もう本当に、心が壊れそうな惨状を呈していた。あそこまでひどい、内的disorderは、いつぶりだろうか。あっちを向いても、こっちを向いても、明後日の方へ視点が飛んでいて、全てがずれてぶれて食い違って、頭が崩折れそうだった。頭の中で、適当にテキストフレームを乱置して、それぞれに好き勝手、キーボードをでたらめに押すように、文字列がずらずらと、流れていて、都市鉄道のメイン乗り入れ駅みたいになって、とてもハードだった。きつい。あそこまで、好き勝手やられるときつい。夜には憔悴して、じっとしていたのだが、小林賢太郎の演劇、『振り子とチーズケーキ』を観て、心が持ち直した。2年前と似ている。持ち直したのは完了形ではなくて進行形なのだが。2年前のようだな。まだ、笑う事ができた。すごい、いいなと思う。小林賢太郎の書くものは。まだ、ロールシャッハとか、ポツネンとか、さっぱり観ていないものも残っているので、ちまちま観ていくつもりである。面白いとか、そういう言葉では表現できなくなってしまった。これを、どう言えばよいのかね。形容詞一語二語では、行間が生まれる余地がない。行にはなっていない。正体不明を、捕まえるために、もぞもぞと手を伸ばしていると、時間が経ってもうお終いになりそうだ。あ、これはあれでやっていたやつの延長線上だなとか、あれのそれだなとか、時系列順に整理されていない、頭の中でごっちゃになっているコントとかあれそれが、ちか、ちか、と光る時がある。2人しかやっていないのに、いやあ、すげえなあと思う。空想は、羽ばたくのも、大変だが、地面にもう一度、姿勢を崩さずに降りてくるのも、大変なのだが、小林賢太郎は特に、突拍子もないフォームで飛んで、見た事のない軌道を描いて、それからパッとマットに帰ってくるので、なんというか。職業はあれで間違っていなかったろうと思う。鶏肉のぶつ切りが売っていたので買ってきたが、モモの脂の旨さとか、そういうのがなくて、鶏肉の消極的な部分の味がするところがいっぱいだった。いっぱいできたので明日の分もある。

ふすまプロペラ

昨日の日記のタイトルですが、そう思った理由が一応あります。何をするにしても、予行演習というか、「それ」に類する行為の真似事をする環境って、溢れているな、と思ったのです。予想問題的というか、リハーサルというか。前以ってできない体験って、死とかだと思うんですが、大体の事が、近い品質のものを味わえるようになったんだなと。思いました。アダルトショップでフレグランスを買った帰りに。〇〇の匂いとか、△△の匂いとか、××の匂いとか、レッテルだけで満足しようと思ったら、結構ありました。本物を知らないので、これが本当にそうなのか分かりませんでしたが。そう……なのかな? と言った感じで。想像は許す、的な。昨日電話が来ていたけれど、正しい番号かどうか自信がなかったので、今日にした。Macの修理が、思ったより早く終わった。バッテリーと、タッチパッド・キーボードがくっついたトップボードを全部取り替えて、AppleCareのパワーで無償になった。そうでなければ、4万円くらいかかったらしい。家電量販店やら、メーカーやらの、買った時に入れる保険は、年数にも依るが不慮の事態にはありがたい。起きないとは言えないので。修理が高くつくと、助かった気分になるが、買った時に本体価格の何%かを払って加入しているわけなので、金は払っているわけだ。この辺は、まともに考えると可愛くないやつになってしまうので考えない事にする。キーボードが2年? 越しに新しくなったので、まだ脂で鞣されていないというか、ちょっと固くてマット加工に引っかかるような感じがある。元々こんなだったっけ。毎日バス停を少しづつ動かすと分からないように、毎日キーボードをしばいていると分からない。めでたいし、今日は躁と沈鬱の波が激しくて、昼はちょっと元気だったような、そうでなかったような、回転寿司を食べに行った。とても好きにしていた、えんがわのユッケが目当てだったのだが、そもそもメニューになかった。クビになったのだろうか。それとも、あれはくら寿司にしかないのだったか。あった気がするのだけど。過去の日記を漁れば、答え合わせはできるが、過去の日記を読むと人格が分裂する音がして気持ち悪いのでしない。えんがわをわさびでぺぺっとしたやつはあった。これは、二番目くらいに好きだ。私はえんがわが好きなのかもしれない。あとは、えんがわをごま油かけて炙ったやつ。えんがわ、好きなのかな。今日は涙巻き(わさびがいっぱいのやつ)を食べなかった。間違えてSiriを起動したから、ごめん間違えたと謝罪した。いいんですよと言われた。情緒が微妙だ。

この世には進研ゼミが溢れている。

携帯のメモ帳に、いくつか書いていない題材があったので取り上げる事にする。だからどうという事はないが。ドグラ・マグラの下巻だけあった。確か、角川文庫版だったと思う。というか、角川以外から出ているのかしら。上巻がない。ドラマの一話から六話まで観ていないようなものである。私は一話を観逃したら絶対に追わないので、これはクリティカルな事態である。しかも、下巻が2冊あった。という事は、上巻も2冊あったと考えるのが自然だろう。すると、ドグラ・マグラというタイトルに興味はあるが、上下まとめて買って帰るほど自信がないから、とりあえず上巻だけ読んでみて考えよう、という思考の人が2人いて、両者ともに上巻で挫折したのだろうか。私は、昔から時々思い出しはするが、ドグラ・マグラを読んだ事はない。京極夏彦と同じくらい、いつか読もうと思っている。なぜメモしていたのかというと、頭の中に浮かんだ、「ドグラ・マグラの下巻だけある」という字面が、又吉・むねしろの自由律俳句っぽいな、と思ったからだった。メモするほどの事は、大抵動機を覚えている。渋谷付近の、でかい国道を渡る横断歩道を待ちながら、私が同じものを延々摂取できるのは、それを理解し鑑賞しているからではなく、何も考えず感じていないからではないか、と思った。受け取る情報量がゼロなのだから、そこから咀嚼して得られる情報もゼロである。延々と、ゼロを入力して、ゼロを出力しているだけなのではないか、と怯えた。そういえば、昨日はよく寝付けず、ぶつぶつ色々呟きながら、布団の中の暗がりに向かって自省していた。果てしなく虚無だ。あの作業は。出題者も解答者も採点者も自分なのだから、たちどころに全部繋がって、自分ですでに行先の分かっているコースを歩き直す作業に他ならないのだから。こういう不健全作業には不本意ながら慣れてしまった。だからと言ってしんどくないわけないのだが。思い出すと嫌な気分になってきた。いつの間にかできた、新しい韓国料理屋の看板に、「take out 持って帰り」という文字が付いていた。持ち帰り、ではないのだね。ある住宅の前に、大量にゴミが出されていて、それに「燃やすゴミ」という紙が貼っつけてあった。燃えるゴミではない。燃えるかどうかはどうでもよく、燃やすと言ったら燃やすのだ、という感じがあった。実際、この自治体の償却施設は、大変優秀だった覚えがある。12/21(月)燃やすゴミと書いてはあったが、明日燃えるゴミの日じゃないんだよな。なんだったんだろう。

この世には進研ゼミが溢れている。

携帯のメモ帳に、いくつか書いていない題材があったので取り上げる事にする。だからどうという事はないが。ドグラ・マグラの下巻だけあった。確か、角川文庫版だったと思う。というか、角川以外から出ているのかしら。上巻がない。ドラマの一話から六話まで観ていないようなものである。私は一話を観逃したら絶対に追わないので、これはクリティカルな事態である。しかも、下巻が2冊あった。という事は、上巻も2冊あったと考えるのが自然だろう。すると、ドグラ・マグラというタイトルに興味はあるが、上下まとめて買って帰るほど自信がないから、とりあえず上巻だけ読んでみて考えよう、という思考の人が2人いて、両者ともに上巻で挫折したのだろうか。私は、昔から時々思い出しはするが、ドグラ・マグラを読んだ事はない。京極夏彦と同じくらい、いつか読もうと思っている。なぜメモしていたのかというと、頭の中に浮かんだ、「ドグラ・マグラの下巻だけある」という字面が、又吉・むねしろの自由律俳句っぽいな、と思ったからだった。メモするほどの事は、大抵動機を覚えている。渋谷付近の、でかい国道を渡る横断歩道を待ちながら、私が同じものを延々摂取できるのは、それを理解し鑑賞しているからではなく、何も考えず感じていないからではないか、と思った。受け取る情報量がゼロなのだから、そこから咀嚼して得られる情報もゼロである。延々と、ゼロを入力して、ゼロを出力しているだけなのではないか、と怯えた。そういえば、昨日はよく寝付けず、ぶつぶつ色々呟きながら、布団の中の暗がりに向かって自省していた。果てしなく虚無だ。あの作業は。出題者も解答者も採点者も自分なのだから、たちどころに全部繋がって、自分ですでに行先の分かっているコースを歩き直す作業に他ならないのだから。こういう不健全作業には不本意ながら慣れてしまった。だからと言ってしんどくないわけないのだが。思い出すと嫌な気分になってきた。いつの間にかできた、新しい韓国料理屋の看板に、「take out 持って帰り」という文字が付いていた。持ち帰り、ではないのだね。ある住宅の前に、大量にゴミが出されていて、それに「燃やすゴミ」という紙が貼っつけてあった。燃えるゴミではない。燃えるかどうかはどうでもよく、燃やすと言ったら燃やすのだ、という感じがあった。実際、この自治体の償却施設は、大変優秀だった覚えがある。12/21(月)燃やすゴミと書いてはあったが、明日燃えるゴミの日じゃないんだよな。なんだったんだろう。

縦列降車

タブレットを使ってみれば使ってみるほど、自分の行動様式にとことん合わないなと思えてくる。タスクをタブ管理して、それをまとめてウィンドウにして、そのウィンドウがいくつも開いたまま同時並行で動き続けて、一足で目当てのところへ飛んでいけるような、要するにMacタッチパッドを指3本で上にぴゃっとやった時の、あの状態が好きなのだが、タブレットだとどうにも納得行くような気持ちの良い収まり方にならなくて、細かい部分で小さいストレスが溜まり続けていく。一週間前後と言っていたから、クリスマスイブ前には帰ってきて欲しいところだが、どうだろうか。今日は、2回くらい起きたのだが、抗い難い、気怠さと、中身の無さが頭から取れなくて、布団の中でずるずる存在の引き延ばしを図っていたら、14時に目が覚めた。なので、今日はほとんど何もしていないし、しようと思っていた事の、半分も終わっていない。そもそも、何かを終わらせようという積極的な気持ちがどこにあるのか。今日は、長らくぶりに、まっこと、産業廃棄物のような有り様で世に留まり続けてしまい、何をしても恥のような気持ちがしていた。あぁ、あぁ、と言いながら、時間がぽろぽろと、デッサン用の乾いたフランスパンが欠けていくようになるのを見ていた。デッサン用のフランスパンは、たまに食べてもいいよ的な事を言われるのだが、鉛筆のカスと、油絵の具のの匂いと、手垢と、色々が降り積もった状態のそれを、口に運ぶ気がするかというと、大体においてしないものである。新品を買ってきた時には、ちょっと齧ってみたりもしたが、パン単体で食べるには、私のパンという存在物そのものに対する愛情がさっぱり足りなくて、お、パンの味がするな、くらいしか物思わなかった記憶がある。部活動の時のことを思い出していた。人生で楽しかった時期は、一体いつだったかなと考える事があるのだが、もしかしたらあの辺りだったのかもしれない。私には現状肯定能力というか、自己肯定能力が欠けている。とかく、褒めるとか感謝するとか、あの辺りの所作が苦手である。何なのだろうな、一体。帰省した折、会おうとしている友人2人、一応アポが取れた。年内には会えなさそうである。何がどうとかではなくて、彼彼女のスケジュール的に? 両者ともに、私の人格形成においては少なからぬ関係があったから、願わくば会えるとよい。私が、友達いますか、と言われて、パッと挙げられるのはあの2人しかいないので。

縦列降車

タブレットを使ってみれば使ってみるほど、自分の行動様式にとことん合わないなと思えてくる。タスクをタブ管理して、それをまとめてウィンドウにして、そのウィンドウがいくつも開いたまま同時並行で動き続けて、一足で目当てのところへ飛んでいけるような、要するにMacタッチパッドを指3本で上にぴゃっとやった時の、あの状態が好きなのだが、タブレットだとどうにも納得行くような気持ちの良い収まり方にならなくて、細かい部分で小さいストレスが溜まり続けていく。一週間前後と言っていたから、クリスマスイブ前には帰ってきて欲しいところだが、どうだろうか。今日は、2回くらい起きたのだが、抗い難い、気怠さと、中身の無さが頭から取れなくて、布団の中でずるずる存在の引き延ばしを図っていたら、14時に目が覚めた。なので、今日はほとんど何もしていないし、しようと思っていた事の、半分も終わっていない。そもそも、何かを終わらせようという積極的な気持ちがどこにあるのか。今日は、長らくぶりに、まっこと、産業廃棄物のような有り様で世に留まり続けてしまい、何をしても恥のような気持ちがしていた。あぁ、あぁ、と言いながら、時間がぽろぽろと、デッサン用の乾いたフランスパンが欠けていくようになるのを見ていた。デッサン用のフランスパンは、たまに食べてもいいよ的な事を言われるのだが、鉛筆のカスと、油絵の具のの匂いと、手垢と、色々が降り積もった状態のそれを、口に運ぶ気がするかというと、大体においてしないものである。新品を買ってきた時には、ちょっと齧ってみたりもしたが、パン単体で食べるには、私のパンという存在物そのものに対する愛情がさっぱり足りなくて、お、パンの味がするな、くらいしか物思わなかった記憶がある。部活動の時のことを思い出していた。人生で楽しかった時期は、一体いつだったかなと考える事があるのだが、もしかしたらあの辺りだったのかもしれない。私には現状肯定能力というか、自己肯定能力が欠けている。とかく、褒めるとか感謝するとか、あの辺りの所作が苦手である。何なのだろうな、一体。帰省した折、会おうとしている友人2人、一応アポが取れた。年内には会えなさそうである。何がどうとかではなくて、彼彼女のスケジュール的に? 両者ともに、私の人格形成においては少なからぬ関係があったから、願わくば会えるとよい。私が、友達いますか、と言われて、パッと挙げられるのはあの2人しかいないので。

骨格パーツ

iPad生活2日目。めちゃくちゃに不便というわけではないが、それなりに不便である。ブラウザをスクロールする時に、ちょっと軌道が左にずれるとブラウザバックの扱いになるので、すぐリロードされたり、文章が飛んだりして、敏感なのも考えものだなという感じがある。指でぺたぺた触るより、Apple Pencilでたん、たん、と突っつく方が正確だし。これも、先っちょが細いので、スイートスポットをthrustできないといまいち反応が悪い。私が雑なセンサーをしているのも悪いのかもしれないが。あとは、動画の音がいまいちだったりする。バッテリーの持ちはいい。というか、入院中のMacのバッテリーが、それだけ老朽化していたという事になろうか。最初の頃は、InDesignで作業していても、それほど激しく持っていかれなかった記憶があるので。使い過ぎたのだろう。家の、あるいは机周りのスペースに、タワー型PCを置けるスペースがあるわけでもなく、全てを全てあれでやっていた。当然の疲労故障か。AppleCareに加入していなかったら、バッテリーだけでも幾万円かかったか分からないので、最初に数万円払っておいたのは悪くなかった。よほどこちらが悪くない限り、だいたい無償で修理してくれるので。しかし、正規ストア的なところへ修理に出した時、他に待っている、持ってきている人は、皆皆iPhoneが云々、という感じだった。携帯端末では日本でもしこたま普及しているが、PC的な面ではそれほどでもないのだろうか。身近にヘビィなアップルユーザーが数名いるから、あと海外の場面も見たからか、そんな感じがしないようなするような。対応していないソフトやゲームが多いから、増えないのも分かる。もう少し融通を効かせてくれてもよいのだが。あと、画面がちっちゃいので、目がすごい疲れる。このタブレットもそれほど小さいわけではないのだが、デカくなるのであればデカい方がいい。目にくる。帰省の日取りもあるので、まだ新幹線のチケットを買っていないので早く買わねばならないのだが、冷蔵庫の中身に関しても逆算して消費・入荷する必要がある。食肉は、買ってこなくても、冷凍分を合わせるとちょうどくらいか。野菜の調整が難しいかもしれない。帰る時は大家さんに挨拶して行った方がいいだろうが、このご時世であるからして、電話で失礼してもいいのかもしれない。会う予定の人には、連絡だけは入れた。どうでしょうね。色々。

給水マスク

さすがによくないかな、と思ったので、Macは修理に出した。よって、本日より一週間ほど、慣れないiPadで生活してゆく事になる。愛機の方は、結局、バッテリーの経年劣化によるものと、簡易診断では言われた。実際はどうだろう。詳細なレポートが出てくるものだろうか。データ損失も覚悟の修理ではあったが、バッテリーと、キーボード側の天板を取り替えるだけで終わるので、万が一がない限りそのような事態はないらしい。少し安心した。データバックアップを取った意味が、あるような、ないような。あれ以外のPC、というかキーボードを触るのは久しぶりで、めちゃくちゃ居心地が悪い。修理を見越して、昨日からiPadに軽く触れていたが、Macの数少ない悪いところ、ライブ変換の存在を思い出して憤死しそうになった。あの機能は、本当に、許せない。私のタイピングスタイルと、絶望的に相性が悪いのである。あれが嬉しいという人がいたら、是非知らせてほしい。そして、どのあたりが性に合うのか、説明してほしい。本当に、絶対的に理解できないので。こうして他の機体を触っていると、あの独特なカチカチしたキーボードが無性に恋しくなってくるものだ。キーピッチとか。前に修理に出した時も、全く同じ事を言ったような気がするな。つまり、そういう事だ。私はあれなしではなかなか厳しい身体になってしまったのだ。気に入った一つのものを、いつまでも大切にする。難儀である。慣れないキーボードで書いていると、はやすでに手を攣りそうなのだが、私の身体はこんなにも適応力に乏しかったのか。特に左手がものすごい。ぴくぴくする。結構休み休み書いている。身体に合うものが大事ではあるが、身体に合うものばかり親しんでいてはいけないなと思う次第。今日は、話しても大丈夫な人だったので、魂の階梯が低い、それはもう低い、道徳の絞りカスもない会話をした。会話をさせてもらった、の方が正しいか。私は下品な話を聞いてくれる人には甘えている気がする。なんだか申し訳ないな……。もっと楽しい話の方がいいと思うんだけど。レパートリーにないので。今思い出してもひどい話だったが、よく相手してくれるものだ。大切にしなければいけませんね。帰りに、気になっていた中華の店に入った。目当てにしていたよだれどりは、今日は鶏肉がないので無理と言われた。そういう事も、まあ、あるよね。仕方ない。一品だけだと足りないかと思って、刀削麺(読み方を忘れた)の大盛りを頼んだら、二郎の2倍くらい麺の量があって動揺した。元の、小麦粉の塊に直したら、赤ちゃんのどたまくらいあったのではないか。なんとか食えた。トッピングらしいものが、荒切りのキャベツしかなかったので、そこもキツかった。水餃子とかあるらしいので、今度はそっち方面を頼んでみよう。

給水マスク

さすがによくないかな、と思ったので、Macは修理に出した。よって、本日より一週間ほど、慣れないiPadで生活してゆく事になる。愛機の方は、結局、バッテリーの経年劣化によるものと、簡易診断では言われた。実際はどうだろう。詳細なレポートが出てくるものだろうか。データ損失も覚悟の修理ではあったが、バッテリーと、キーボード側の天板を取り替えるだけで終わるので、万が一がない限りそのような事態はないらしい。少し安心した。データバックアップを取った意味が、あるような、ないような。あれ以外のPC、というかキーボードを触るのは久しぶりで、めちゃくちゃ居心地が悪い。修理を見越して、昨日からiPadに軽く触れていたが、Macの数少ない悪いところ、ライブ変換の存在を思い出して憤死しそうになった。あの機能は、本当に、許せない。私のタイピングスタイルと、絶望的に相性が悪いのである。あれが嬉しいという人がいたら、是非知らせてほしい。そして、どのあたりが性に合うのか、説明してほしい。本当に、絶対的に理解できないので。こうして他の機体を触っていると、あの独特なカチカチしたキーボードが無性に恋しくなってくるものだ。キーピッチとか。前に修理に出した時も、全く同じ事を言ったような気がするな。つまり、そういう事だ。私はあれなしではなかなか厳しい身体になってしまったのだ。気に入った一つのものを、いつまでも大切にする。難儀である。慣れないキーボードで書いていると、はやすでに手を攣りそうなのだが、私の身体はこんなにも適応力に乏しかったのか。特に左手がものすごい。ぴくぴくする。結構休み休み書いている。身体に合うものが大事ではあるが、身体に合うものばかり親しんでいてはいけないなと思う次第。今日は、話しても大丈夫な人だったので、魂の階梯が低い、それはもう低い、道徳の絞りカスもない会話をした。会話をさせてもらった、の方が正しいか。私は下品な話を聞いてくれる人には甘えている気がする。なんだか申し訳ないな……。もっと楽しい話の方がいいと思うんだけど。レパートリーにないので。今思い出してもひどい話だったが、よく相手してくれるものだ。大切にしなければいけませんね。帰りに、気になっていた中華の店に入った。目当てにしていたよだれどりは、今日は鶏肉がないので無理と言われた。そういう事も、まあ、あるよね。仕方ない。一品だけだと足りないかと思って、刀削麺(読み方を忘れた)の大盛りを頼んだら、二郎の2倍くらい麺の量があって動揺した。元の、小麦粉の塊に直したら、赤ちゃんのどたまくらいあったのではないか。なんとか食えた。トッピングらしいものが、荒切りのキャベツしかなかったので、そこもキツかった。水餃子とかあるらしいので、今度はそっち方面を頼んでみよう。

うつ伏せでこぼれる

寒くなった。日中夜間問わず。皮膚にきゅっとくる感覚がある。起きてから、フローリングを踏んで、足を引っ込めそうになった。掛け布団は、電気に照らすと、綿がまだらでダマになっているのが見えて、寿命というのではないが、効果が薄くなっているような気もする。でも、寝る時は暑い。起きると寒い。人体とはまこと厄介なものだと思う。充電マックスのはずなのに、時々Macが落ちるのでおかしいなと思っていたのだが、バッテリーステータスに、バッテリーの交換修理、と書いてあった。バッテリーが老朽化したのか、接続が悪くなったのか、取り替えんかいこのばかちんが、という事らしい。突然落ちてから復旧すると、バッテリー残量が0%になっていたから、そうなのだろう。リペアに持っていかないといけないわけだが、出すと1週間くらいはメインPCなしで過ごす事になるわけで、これはいささか都合が悪い。だが、修理に出さなければ不慮のブレイクダウンで作業が失われる危険性もあるわけだし、悩ましい。今まで、修理でデータが飛んでいたのはどうしようもないからだと思っていたが、見る限り、アップルは修理に出すとそもそもデータを消してしまうらしい。今のものが消えると、それはもうすこぶる困るので、本日までのバックアップを取っている。あと7時間とか8時間とかかかるらしいが。90GBちょいを転送するのに、そんなにかかるのか。間に変換ドックをかませたりとか、色々あるからか。最低保証は欲しい。しかし、すると、修理から返ってきた後も、バックアップディスクからの復旧に同じくらいの時間がかかるという事か。むむむ。前門も後門も虎な気がするな。一応しばらくは使えるらしいので、落ち着くまでは修理は考えるか。いや、年を越すのもな……。ちょっと、考える。スーパーで、ゴーダチーズのブロックを買ってきた。確か、ゴーダチーズだったと思う。ちょっとしたポケット辞書くらいのサイズがあって、でかい。買ってきた日に、少し切り出して食べてみたが、そのまま食っても悪くない。ベビーチーズの方が食べやすいが。塩っ気が少し「ぬもっ」としているので、酒のアテにするにはいいのかもしれない。飲めないので分からない。フライパンで適当に肉を炒めて、そこに適量刻んで乗せるといい感じになる。というか、チーズはこうやって食べる方が、今までのインプットに合っている。冷めるとすぐぎゅっとなってしまうので、そこが惜しい。美味いが。

自生する

移動時間に読むための本を買いに行った。のろのろしていたら午後になったが。一階の新刊エリアとかを見るたびに、俺は生まれる時代を間違えたのではないかと思う。うわぁ……と思ってしまう。理屈とか抜きに、もうこいつは絶対、根本的に合わない無理だなと思う人に、近い感覚がある。そういう人がいるので、そういうものもあるのだろう。いつもの小説エリアへ。この世にはたくさん本がある。昔、ロシア語の授業で、世界中にある全部の本を(原語で)読みたいとか抜かした記憶があるが、まあ無理だろう。あの頃、なぜどうしてあれほど元気だったのか、いや、元気ではないな、目的も目標もなく渇いていたのか分からない。今は、ないものは同じというかもっと増えたが、存在の有り様として静的になってしまった。はぁ……。穂村弘のエッセイがあったので、手に取ってぱらぱら読もうかと思ったが、新刊にあった、誰彼との対談集を読んで、これは違うな、との感想を思い出し、自分が出した結論を重視し、棚に戻した。なんかで読んだ一冊は、面白かったような記憶らしき朧げな何かがあるが。伊坂幸太郎の、気になっていたタイトルが2つ、文庫になっていた。片方はタイトルさえ初めて見たが、伊坂幸太郎なら面白くないわけがない、という自分ルールがあるので、それは取った。キャプテン・サンダーボルトは、新潮社は新潮社でも、ネックスという、ラノベと文芸の中間みたいな、いや、ラノベも文芸っちゃ文芸なのだが、ライトなのと、一般に言う小説みたいなのとのグラデーションにあるやつというか。装丁はものすごくラノベっぽいが、意図してスタイリッシュな感じにしているとかなんとか、創刊の時に声明か何かを読んだ気がする。ノベルゼロとか、他にもあったが、どうしてそんなに中間が必要なのだろう。ラノベはだせえけどちゃんとした本は読みたいようなでもハードルが高い、みたいな、そんな事があるのか。そもそもそういうターゲット向けなんだっけ。とりあえず、レーベルでまとまって棚に並んでいると、上から下へ、黄色から白に変わっていくようなグラデーションで、字面のちまい明朝でタイトルを切ってあるから、全部が全部同じに見えるデメリットがあるな、とは思った。新潮とか文藝春秋は、背の色が違うから、あれは綺麗だ。村上春樹の本とか、川上未映子のエッセイとか、これ面白そうだな、もうちょっといけるかな、と考えながら手に取っていたら、最初は4冊くらい買っておけば安泰か、と思っていたのに、いつの間にか7冊になっていた。あ、そうだ、森博嗣のつぶやきシリーズ最新刊が出ていたのだ。あれも買った。あれは面白い。

いのちのよだれ

昨日は800字くらいしか書かなかったが、あの気付きに対してしょうもない事を付け加えるのは見てられないな、と思ったから。わざわざいらんもんをぶら下げる必要はないと思った。私が、あとどれくらいあの話を覚えているかは分からないが、事あるごとに思い出すのではないかと踏んでいる。良心、本当にないのではないかという気がしてくる。えらい人を見ても見なくてもそうだ。長いものが強い。しかし、誰が長いのかというと、元から長いやつなのではないか。とすると、長い側が自覚し改める事がなければ、ずっとこのままの構造が続いていくわけである。これで、前にたくさん買ってきた文庫本は全て読み終わったはずだ。一番ヘビィそうだなと思っていたから、海と毒薬を後ろに回していたわけで。西尾維新の本が3冊残っている。あれは、こちらが相当元気な時でなければ読めないし、通読しなければ迷子になるし、一気に走り切るにはやっぱり元気がいる。今ではない。すると、移動時間に読むための文庫本が尽きたわけで、また本屋に行かなければいけない。さっき晩御飯を作った時、玉ねぎを買い足し忘れた事を思い出したので、明日は食料買い出しの予定がある。その途中で、本屋にも寄っていこう。結局、まだハルヒの新刊も買っていないが。今度は、どういう本を買おうか。や、どうせ小説を買うのだが。普段買わないようなものに手を出しているから、また、本棚の間をぷらぷらしながら、面白そうなのを見つけるか。電子辞書とかもそうなのだが、いちいち項目を開いて、主にそこだけの展望しか供されないので、オンラインの買い物というのが好かない。目の端にちょっと映った何かに、蛾のように吸い寄せられる事がない。情報が整理されすぎているのである。五十音順とか、レーベル別とかで十分だ。この前気になった、フード付きコートを調べてみたら、そもそもSサイズというものが存在しなかった。私はとても悲しい。デザインは完璧で、あとはサイズだけだったのだ。その一点が解決できなかった。しばらく上にパーカーを着続けるが、コートらしいコートが欲しい。嫌いではないが、あれはあれで結構嵩がもりもりして気にならないでもない。牛乳を飲んだコップを洗い忘れていた。バラすのを忘れていた豚バラブロックを切ったが、当たり前だが豚バラなので、脂がすごかった。目嵩の半分くらい、脂だった。カリカリになるまで焼くか、脂のところだけ食べずに避ける、という事をしなければ胸が焼ける。