他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

本土砲

zsaszのオンラインライブがYouTubeで観られます。https://www.youtube.com/watch?v=JTpAtxl9j7k時間のある時にどうぞ。鬱Pの曲はどれもかっこいいな……という感想がぼろぼろ出てきます。特に、8曲目のJIGOKU...が好きなのでおすすめです。2月あたりにアルバムが出るらしいので、楽しみにしておきましょう。かっこいいです。他は、ラーメンズのコントから離れて、KKPの方で小林賢太郎を観ている。長尺で、何人も出てくるのが面白くなってきた。それはそれとして、バナナマンのコントを久しく観ていないので、持っているものはおいおい観直していきたい。無限レーズンの話とか、game of whichとか、断片的には覚えているのだが。朝起きて、なんだかだるくて、ぐじゃぐじゃして布団の中で存在が解けるままにしていたら、10時くらいに起きて、それでも内的な膨張がなかったので液状を保っていたら、14時手前くらいにやっと活動を開始できた。三度寝の夢は、なかなか酷かった。高層にある内部スカスカの木造組足場みたいなところに、私が両手をライオン的な生物に飲まれ、存分にぬたぬたした粘膜を感じながら、遥か下方にいるそれらの飼い主と会話をしていたら、私が落ちそうになってバランスをとったらライオンが下において墜死し、怒った飼い主が殺人鬼と化して追いかけてくる、という、やっぱり夢は文字に起こすとその一切を剥ぎ取られて潤いを失うものだな。ライオン的生き物の口腔のぬたぬた感とか体温とか、ものすごく生々しいものだった。起きたら変な汗がびっしょりしていて、それが乾くまで生き物としての形を取り戻す事をやめていた。今日は、本当は洗濯機を回してよかった日なのだが、めんどくさくてしなかった。大家さんにもらった何かは、確かお菓子と何かだった気がする。自分で間食を買うという事を、スーパーに行くたび忘れているので、人からもらうと助かる。間食するわけではないが、衝動が訪れた時にあると便利である。何の話してたんだっけ。2日、3日くらいか、外に出ていないので、よく分からない。すぐ、感覚が途絶して、コンパートメントになる。長大に羅列されるフィクションのきらめきを見て、個体として切り離されているかのようだ。何の話をしているんだ。さっき、洗い物をしている時に、乾燥ラックから飛び出していたフォークの矛先で手の甲をえぐられ、ちょっと怪我をした。これくらいならすぐ治るが、フォークで手をやられた事にびっくりした。安い、先のなまくらなやつでよかった。

カメレオン味

川上未映子『世界クッキー』を読んでいる。表紙のコラージュが、なんだか精神が不安定になる感じで、よい。私がどうしても落ち着かない色味の白が、そこかしこでちらちらしている。表紙に溢れている、あの白、アクリル絵の具で刷いた時に似ている。それでも、なんだか違う。どう違うのだろう。そして、どの辺が似ているのだろう。分からないが、生理的にむずむずする白なのだ。あれだ、ジェッソが乾いた後のあれが、一番近いかもしれない。あの肌触りは、どうにもいけない。触らずとも、見ているだけで不安になる。川上未映子の文章を読むのは、久しぶりだ。開高健も、身体感覚的な文章だが、こっちは、なんというか、馬に乗っているような文章である。あるいは、長い長い、一連のダンスのような。ぐねぐね、ぐるんぐるんして、しがみついて、振り飛ばされないようにしないと、目が文を遡って、遡って、上流に戻って、何行も何行も前まで戻って、もう一度ロデオを繰り広げる事になる。一文を読み通すのに、途中で気をやってはいけない。ひもQを噛み切らずに、一本まるまる飲み込むような作業である。所作に気を配らないと見逃してしまう、緊張感がある。大阪弁で、飄々として、ぺらぺらと進んでいるのに。小説は読んだ事があったが、エッセイは初めてかもしれない。この人は、こういう文章で世界を切り取る方法の人なんだな、と思った。あのスタイルでできている。買ってきたままの本が溜まっているから、ちょいちょい読んでいきたい。ついでに片付けられればいいのだが、なかなかそうしない。今日、やっておこうと思った事はやったが、朝寒かったので、ゴミ捨てはやらなかった。あのゴミは、確か年を跨いだゴミである。冬なので虫もアレもソレも湧かないのでいいが。早く捨てればいいのに。冷蔵庫の中に、チーズを置き忘れていて、これを久しぶりに開けてみたら、なんだか辺な匂いがした。前は、匂いが薄くて、鼻を近づけて、ようやっと雰囲気を感じるようだったのが、形容が難しいが、食べ物からあまりしてほしくない、少なくとも私は、匂いがしていた。あれはチーズなので、チーズにも色々あるから、本来のそうありがちな姿に至っただけかもしれないけれど、なんかイヤな匂いがする。フライドガーリックを削ってかけたが、それにしてもニンニクの責任は薄そうだ。匂いのきついチーズはきついというし、あれが自己実現自己発現の結果なのだとしたら尊重したいが、どうなのかしら。

とんちゃん

年末、帰省の報告に大家さんのところに挨拶に行ったら、お年賀だとものを頂き、昼に伺った時に不在だったためさっき玄関先に見えてまたお年玉だとものを頂き(広島のお土産を渡しました)、たいへん気心の良い方だなと思いました。や、もう。生活にゆとりがあると見えて、そこから生まれるそれなのでしょうが、よい人だなと思います。洗濯物、昨日すでに干していたはずなのだけど、昼、家を出る前に触っても乾いていなかった。朝露に打たれたのかもしれない。それにしても。厚手の、外に出る時羽織る用のパーカーがまだ乾いていなかったから、今日はマフラーだけで出た。このマフラーは、中学だか高校の時に母からお下がりでもらったのだが、帰省中聞いたところによると、母が同じく高校生くらいの頃から持っているものらしく、頭の中で計算したら、立派な成人が誕生してしまうくらいだった。ワオ。物持ちのいい親子だ。ついでに、今でも着ているパーカー2着、これも、もう12年だかそこらくらい着続けているらしい。もうなくなったが、近所にあった服屋で買ったものが、まだそのまま健在だったのだ。ぺらぺらで、グレイの方は袖に虫食いのような穴があり、これは多分生地が擦り切れた末のものだと思うが、なぜなら虫に食われるほど長期間奥に仕舞っていた事がない、腹のあたりについたポケットは端がようやっとほころびて取れそうになっているくらいだ。今着ている、母がこれええんちゃうかと買ってきた真新しいパーカーの生地の厚さに、多分これが普通くらいなのだと思うが、驚くくらいに、普段使いしているあれらはやせ細っているのだ。環境の定常性を好む性質が、かなり根の深いところまで沁みているのだなあと、感じ入った次第。そのせいで、片付けをしないのかもしれないが。玄関先は、資源ごみは帰省前にまとめて捨てたが、部屋の中がすごい。もう、それはすごい。足の踏み場はちゃんとあるが、高さがそれなりにある。でも、まあ、そこまで汚くはないか。汚い部屋は汚いからな。新しくできたのに、一度も客が入っているのを見た事がない店に行った。行かずになくなるのは、ちょっと困るなと思った。ちょっとなので、別によかったのだが。油そばのくせに、値段が高い。近隣の店なら、同じ値段でアホみたいな大盛りまで変更できる。コンセプトを重視しているようだったが、そこに金かけるんやったら商品の値段下げてくれんか、という空疎さがあった。油そば自体は美味しかったが、そこにしかないものがあるのかというと、微妙な感じ。近くに、絶対的人気店がたくさんある立地なので、淘汰されるのも時間の問題やもしれない。

古今東西「入れるもの」

昨日の深夜、家に帰ってきた。服についた洗剤の残り香が、私の家のものとは違う。この匂いがなくなるまでは、実家を感じるのである。海外に行った時の服を広げたり、本を開いたりすると、今でもまれに、匂いが残っていて、鼻先に漂ってくるものがある。長い時間、定点で生活すると、そこの、あるいはそこで自分が発生させる匂いに対して、記憶が結びついていく。だから、そういう、ベルトコンベアの中に差し込まれた異物には、つんのめってハッとする。飛行機を降りて、異国の空気を吸うと、どうにも匂いが違う。私なんかは、片手で足りるくらいの国しか行った事がないから、世界中を知る人ならば、これについてもっと身体感覚的な意識があると思う。湿度とか、色々コンポーネントがある。起きてから洗濯機を回したが、むにゃむにゃしていてよく覚えていないけれど、おそらく洗剤を結構入れ過ぎたと思う。今日の天候では、一日では乾かなかった。一部、洗い物は見送った。量が多くて入らなかった。冷蔵庫の中が、味のするもの以外、ほとんど底をついていたので、や、長期間家を空けるにあたって、そのように食料チェーンを調整したので当たり前なのだが、スーパーに行った。ふらふらと。筋肉少女帯の『月光蟲』を聴きながら。いいアルバムである。私は川にできる限り近付かず、無縁な場所でミミズをほじくったりして生きていく事にしている。これは比喩だ。私しか分からないような。もう、営業を開始している店がほとんどだった。12日とか、その辺まで休むと張り紙がしてある店もあったが。イギリスにいた時は、たしか、クリスマス前から、一月の中旬くらいまで、当時の主観的感覚からするとすげえ長い冬季休業の店がほとんどだった。こっちが、腰を上げるのが早過ぎるんではないかという気もするね。人気の店が人気で、人が入っているのを見た事がない店は人が入っていなかった。ラジオのヒットチャートが、一年中同じような曲ばかり流しているのと同じだ。チェーン店の店内にコンテナが積み上げられていて、閉店するのか営業開始の準備なのか分からなかった。荒涼としていた。テナントが年末年始でいつの間にか入れ替わっているブロックもあったし。堅実、順調だと思っていた店が、今月中に閉店する知らせもあった。そこそこ近所にあって、便利だったのだが、なくなるらしい。原因は推して知るのみ。ミルで粉砕するガーリックを買った。にんにくは好きだ。新幹線の乗り物酔いが、まだ残っているような感覚がある。

蹄雪

今日は、帰省から帰る日である。帰りの新幹線の中でこれを書いている。家の中で引っ込んで、静かにしていただけの期間であるから、それほど目立ったものではなかったが、しかし顔を見られただけでもありがたい事である。弟や母を見送り、家で時間を潰した。昼から、新幹線の時間まで、人と会う約束があった。相手をする、相手をしてくれる人がいないと、家にぽつんと一人でいるのは、退屈で、暇だった。ちょっと寝たり、寝なかったり、荷物を弄ったりした。家を出る前になって、在来線の時刻表を一切把握していない事を思い出したが、多少いい加減にしても、待ち合わせの時間には遅れまいという楽観があった。一時間に一本とか、二時間数時間に一本しかないとか、さすがにそれほどではなかった。以前の記憶と、それほど街並みは変わらなかった。散歩ついでに入った店が、前は倉庫をそのまま店として開けたような、雑多で、棚の高さで向こうが見えなかったのに、照明が明るくなって、スペースを広々取り、ずいぶん整理されてしまっていたりした。駅で本を読みながら、待ち人を待ち、会えた。待ち合わせ時間を過ぎても、まだ来ないと、私が日取りと時間を間違え、全く無関係の文脈に放り出されてしまったのではないかという不安がどことなく湧いてきて、気持ちが悪くなる。久しぶりに会う彼女(人称代名詞)は、元気そうだった。かなりとんでもない事件が起きたらしいのだが、私と似たところがあるというか、表に内面が滲み出してこない、じっくりと話さないと分からないタイプなので、昼飯を食べながら、事のあらましを聞いた。アジフライと、刺身のサーモンが美味かった。そういう人もいる、という話を聞いてから、温かい白米と刺身を一緒に食べる、いわゆる刺身定食的なものを受け入れられないタイプなのかどうか、その人がそれに当てはまるのかどうか気になって、聞いたりする事があるような気がしたが気のせいかもしれない。気になるらしかった。まあ、口の中で異なる温度感で、食感の食べ物が混ざると、ぐちょっとしてねばねばするので、生理的になんかイヤな感じはある。強く突っぱねるほどでもないかと思うが。まだまだ時間があったので、広島にもある事を知らなかったのだが、コメダ珈琲に行って、ずっと喋っていた。あの人と会うと、いつも、9割くらい向こうが喋っている。私はだいたい聞いている。私が、人と共用できる話題がないせいで。そのような話でも聞いてくれたりするから、まったく貴重な友人である。おそろしくハードな内容の話を聞かされて、会うたびに底が知れなくなり、人間として発現している気がする。事実が小説に追いついたり、補完したりしている。

ブラジリアンカンフー

実は、最近、特に何もしとらんのだな。弟と遊んで、あとは残りの時間が不思議と消えていく。私は、時間の使い方が一番まともなのは、一人の時なのかもしれない。数日ぶりに、うさくんの日記を読みに行った。うさくんの日記は、温度感がちょうどよくて、読者の方を向いていない、適度な独り言という感じがあってよい。私も、書くとだいたいそういう感じになってしまうので、毛並みが近いというのかな、ストレスが発生しづらい状態で読める。これいいな、という日の画像は、こまめに保存してあるのだが、LINEもやってないし、ツイッターで画像リプするやつが嫌いなのでしないから、画像フォルダに溜まっていくだけである。ごくたまに、利用しているサービスの中で、内輪にしかアイコンが見えないような場合には、設定していたりする。ちんちんのところが可愛らしく膨らんでいる画像を設定したものがあったはずだが、あれは元の画像をなくしてしまったので他のところに持っていけない。あとは、権力と書かれたサンドバッグをバットでぶん殴っている画像と。字面に起こすと、一体何を言っているのだか分からないが、実際に、そういう、文字で書くと意味合いが失われてしまう画像なのだから仕方がない。確か、うさくんの日記は、2週間分しか保存されていないので、定期的に読みにいく人でないとライブ感が失われるという性格がある。私は、過去の分が全部も全部だらしなく放り出してあって、うさくんはそういう管理ができるところがいいなと思っている。めんどくさいがゆえにやっている、というところはありそうだけれど。ところで、言うところがないのでここに書くのですが。桃鉄をやりながら、夜叉姫がすっっっっっごい可愛いなと思っている。可愛いね。可愛いね夜叉姫。すごい可愛い。次の目的地を決めるルーレットを回す画面の夜叉姫が一番可愛い。タイトスカートなので鼠径部の概形が見えて、いや、というか、いくらタイトスカートでも鼠径部の概形が見えるなんて、そんな事なくない??? と思うのだが、実際にそういう形に窪んで影が見えているのだから仕方がない。えっちだ……。オープニングで出てくるポーズではそんな事ないのに、ゲームのプレイ中になんたる。次の目的地は ここ で〜〜〜〜すじゃないよ。口元にうっすらと歯が見えるような喋り方をしおって。夜叉姫の一連のモーションを考えた人はすごいですよ。いちいち可愛いからな。語彙力を奪われるくらいの、趣味にハマるキャラを見たのがなんだか久しぶりなような気がするので、アレがアレする。

熱でよじれる

広島には、ばくだん屋というつけ麺屋があるのを思い出したのだが、帰省すると、家族で外食する以外、自分の興味関心に従った食事をしないので、結局行かないままいつも帰っているな、と思った。行ってない。高校の頃だったか、クラスメイトが、激辛メニューの、そこそこ上の方を食べて腹を壊し、体調不良で欠席した事があるのは覚えている。そもそも、つけだれに麺を持っていくくらいなら最初から入れてラーメンにせんかい、とか考えているので、行ってもあれなのかもしれないが。しかし、改めて考えてみると、なにゆえ、スープ(?)と麺を分離して提供しようと思ったのだろうか。単純に洗い物が増えるし、麺の茹で時間がラーメンより長いので茹で釜が長時間埋まり、回転率が悪くなる。しかし、世の中にはつけ麺屋が、ラーメン屋に勝るとも劣らぬ数あるので、メリットはあるのだろう。それが思いつかないので困っているわけだが。根本的に、魂が理解できない、相容れない、というケースなのか。つけ麺が好きで好きで堪らない人がいれば、ぜひ話を聞いてみたい。その際には、ラーメンと比較した際のつけ麺を語っていただきたい。本当に分からないので。大概、つけ麺はラーメンよりも麺が太くなりがちで、太麺好きにはつけ麺の方が魅力的なのかも。ここ十年ちょいくらいで、太麺の方が人気だという話も聞いた事がある。分からない事を一人で煮詰めても仕方がないか。実家に帰って、何もしないのもしょうがないな、と思って、ローストポークを作った。ローストポークなのに、表面を焼き固めてからジップロックに入れて湯煎する、どの辺がローストなのかよく分からないあのメソッドを使ったが。オーブンレンジがあったので、こんな迂遠な事をしなくてもよかったのだが。塩を塗り過ぎたかしら、とか思っていたが、肉汁が少しだけ滲んで、そっちに持って行かれたりするので、少ししょっぱい程度でよかった。普段はジャンツォンジャンをつけて食ったりするのだが、今日は下味のままで食えた。ご飯が進んだ。美味い肉が食えればだいたいなんとかなる、的な言葉を思い出したような気がした。留学する時は、自分で料理ができた方がいい、という言葉は、いつ誰から聞いたのか覚えているのだが。肉の方は、脳内で捏造された言葉の可能性が高いな。しかし、自分で飯を作れるというのは、私は重視しているので。自分の根本的な生殺与奪は、自分で握っている方がよい。

サバイバル柄

本日の気付き。エロ漫画には、ベロチューとフェラのシーンだけあればいいのではないかと思った。以上。雪がちらついたかと思えば、太陽がぴかぴかしていたり、雲に隠れて暗くなったりと、天気が相変わらず情緒不安定だった。天気予報を見るたびに予報が変わっていると言っていたが、実地観測でこうなのだから、まあそうなっても仕方のない事なのだろう。今日は、コートを探しに行った。結局、手頃というか、金はそこそこ出してもいいので、自分で納得のいくコートを見つけられていない。襟はいらなくて、生地の手触りに好みがあって、自分の嗜好の狭さゆえに見つかっていないので、自分の首を自分で緩やかに絞めている気がする。色々店を見て回っていたら、前に見つけてときめいたものの、サイズがMからしか展開されていなくて諦めたハーバードのコートに再び出会い、やはりお前とは相容れぬ運命なのかと天を仰ぐ気持ちであった。よさげな、シャツとトレーナーのペアがあったので、試着してみたら、Mサイズでもでかかった。肩の縫い合わせの部分がずるずるに下にあって、常時萌え袖にはならないが、袖のだぶつきがものすごい事になった。これは、サイズがでかすぎるという事ではないかと思い、試着室の外から声をかけてきた店員に、これでも着れなくはないんですけど、Sってないんですか、という話をしたら、Sはないし、そもそも、最近の製品はMからしか展開されていない、全体的に服はゆったりとしたものが好まれる傾向にある、という話を聞いた。おう。なんと。Mでもでかい民が、ゆったりの大勢に流されてゆったり化したアパレルの中で溺れ、Mしか手に入れられなかったら、服に着られる一生が続くという事ではないのか。困ったな。体格がいいとは、お世辞にも、そして口が裂けても言えないので、カジュアル系の服しか着ないのに、カジュアル系にそういう潮流が来たのは困った事だ。まいっちんぐ。ブームは数十年の輪を描いているというが、生まれる時代を間違えたかもしれない。そもそも、揺り戻しがあるのだろうか。レディースのマネキンに架かっていた、肩の縫い合わせがエルボーに漸近している様を見つつ考えた。結局、ズボン(パンツ)は買った。最近、ズボンという名詞ではあれらは表わせない気がしてきた。すると、私の意識の中では、今まで未分化に見えていたものが、少しずつ、より詳細な名詞で腑分けできるようになってきたという事だろうか。色々見ていると、これはええな、これはええな、という見物ができたので、私はパンツ(下着じゃない方)を探すのは好きかもしれない。まあ、これもSサイズが1本しかなかったので、それしか買えなかったわけだが!

魚チー

深夜に初詣に行ったが、手水が例年と変わっていた。柄杓で手を清める形だと、柄杓が不特定超多数に触れる事になるので、そもそも御手洗がないのではないかと思っていたが、さすがにあった。石のでかい器みたいなやつ、あれに水を溜めておくのではなく、水源から水が湧いてくるあの竹の水道を、石の幅からはみ出させ、下の排水用砂利に落ちるようにしてあった。これには、確かにそうだなと思った。水が、その人だけに触れるようにすればいいわけであるからして、竹延長はスマートな案であった。私はそれについて片鱗も考えなかったので、やはり実地にいなければ思いつかない事もあるのかしら。日が変わるまで、参拝はできないにしてもそれに準ずるアレ的なアレかと思っていたが、幸先参りとかいう言葉を知った現今、普通にできた。年が変わってからやりたい人が残って、そうでもない人は先にできた。待っても仕方がないので、先にやった。おみくじは、じゃらじゃら積んである中からつまみ出すいつもの形式だった。まあ、くじを触りまくって探る人は、そんなにいないだろう。去年までと違って、境内にはそれほど人がいなかった。早めに済ませた人や、ホットタイムを外す人が多いのだろう。気持ちはよく分かる。私は、ただルーチンを崩すのが気持ち悪いという、ただそれだけの理由で行ったので。母の実家に行ったが、雪がそこそこ降っていた。どんどこ、でかい雪粒が落ちてくるような熾烈な雪ではなかったが、しんしんとゆっくり降り積もり、手でさっと掬うと並みの雪玉はすぐに作れてしまうくらいだった。骨に沁みる寒さではなく、パーカーをパーカーの上に引っ掛けているだけで事足りる気温だった。とりあえず、弟と雪だるまを作った。適当にぺたぺたと雪を次々くっつけていると、綺麗な円にはならない。でこぼこで、微妙な楕円にも足りないような、おむすびみたいな。上手くやらないと手の形が残るし、誰に見せるわけでもないのでそこまで完璧には仕上げなかった。雪玉を殴りつけて、2つの目玉と、ちっこい鼻と。雪がふわふわしていたので、頭に乗せてアフロにした。アフロになっていたのか? 雪だるまに帽子やバケツを被せるのは見るが、髪の毛を生やしているのは見た事がないような気がするので、頭髪を設けた。で、雪合戦をした。庭と車庫と道路を使ったフィールドで、途中からゲリラ式の雪合戦になった。相手がいると思われる、見えない植え込みの向こうに玉なり、固まっていない雪を投げて被弾を狙ったりした。すげえ疲れた。

ホイエルバッハ

そういえば、昨日は、母方の祖父母の家に、顔を出しに行ったのだった。寒波だ雪だと脅かされていたが、行きはそうでもなかった。降った端から溶けるような、ちゃぱちゃぱした雪だった。帰りは、これは積もるな、という降り方をしていた。祖父の方が、認知が始まり進んだという話を聞いてはいたが、なんというか、顔を目の当たりにすると、そもそも「人相」が変わっていた。道ですれ違っても、それその人であると分からないかもしれなかった。もう十年以上も、あるいは二十年以上も、バリカンで短く刈り上げたような、ほぼ坊主のような髪型だったのだが、まばらに髪が伸び、一部では指ほどもある長さになっていて、人はこうもこうなるのか、というショックがあった。話もできるのだが、こちらの話が十全に届いているのか分からないし、向こうの発話も6割くらい、そもそも何を言っているのか聞き取れない。ハキハキした快活な人だったのだが。たまに血縁さえも思い出せなくなるらしく、祖母や、娘である私の母なんかは、かなり複雑な気持ちになったのではないか。人は、なんと難しく、複雑で、簡単に失われてしまうものか! 時の流れを、また別の仕方で感じた。中身がこぼれてしまうと。これについては、私も、まだ目の当たりにしたばかりなので言葉にするのが難しい。まだ、自分の手で、言うなれば、つみれにできていない。私のお鍋には入れられない。またよく分からない例え話を出す……。天気予報を聞いてびくびくしていたが、晴れたり雪が降ったり、一面に雪があったり、スノードームの中をゆっくり漂ったり、太陽が出てあったかくなったりして、至る所がびしゃびしゃになっている。さっきもまた、べちゃべちゃになっていたが、夜はどうなる事やら。日が変わるあたりで初詣に行くかもしれないし行かないかもしれない。こんな状況でもなければ、せっかく帰ってきたのだし、見て回りたい店のひとつやふたつあったのだけれど、東京はついに4桁を超えてしまったと聞く。買い物に行くにも、とりあえず母に一任しているので、家で弟と遊んでいる他にやる事がない。この存在の冗長性が、年の暮れと言えるのかもしれない。桃鉄をやっている。これは、まあ、理不尽な人生ゲームという事で、私の中の評価は落ち着きそうである。面白いが。ある程度のところまで盤面が固まると、金を持って物件を持っているやつは貧乏神がつきにくいし、一回転落して物件を売り借金を抱えすると、落ち目から抜け出すのが非常に難しい。人生のゲームである。では。健やかなれ。

デパ地下の地下

開高健『日本三文オペラ』をちょっとずつ読んでいる。タイトルがすでにかっこいい。やっと舞台と登場人物が、浮かび上がってきたかな、くらいなので、物語全体がどうなるのか、どうなっていくのか、さっぱり分からない。分からないが、ぎゅっと詰まった、雲古様の生肉をごてごて裸の手で転がすような文体は実に心地がよい。一体、頭の中でどのような文体が混ぜ合わさって掬い上げた時、このスタイルに煮詰まるのか、さっぱり分からんのだね。そして、地球はグラスのふちを回るを読んでいると、口語調の、関西方便がぎとぎとした文章も書くようで、振れ幅を持っている事に感心する。開高健は、私の中で、評価は必要なく、すごい人であるという階梯にあるようだ。今までの人生で、そういう人は、本当に少ないのだけどね。何人か、片手の指でいいから、大事に抱えておけると、心が本当に危機に瀕した時、うずくまってやり過ごせるようになる。あれは古代ギリシアアフォリズム的なものだったと思うが、paideiaは識ある人にとっては隠れ処になる、という謂いがある。paideiaは、教養とでも言うべきものだが、教育を受けた結果というか、定義しようとすると人生がいくつあっても足りないので、プラトンアリストテレスあたりの専門書でも読んでみると、世界が広がるかもしれないし別に面白くなくて心に棘は残らないかもしれない。この話は何回か、あるいは何回もした事がある気がする。で、私が「心の祭壇」を持っている、という話も同じくらいしただろうな。これは、心酔というか、全面的な肯定、無条件の文化的服従ではないのだが、その人/その人の作るものが、魂の方向性を決定付けているような、自分にとって欠かす事のできないcriticalなもの、これを運び込んで大切に保管している、自分が神官となって、自分だけが全貌を把握している、秘密の部屋、みたいなものか。そこに行って籠って、しばらくじっと、死んだようにじっとしていると、なんとか人の形を取り戻せる最終防衛地点、そこをそう呼んでいる。私は。しっくり来なければ、いや、他人のタームを使っては、それが自分のものではなくなってしまうので、どう考えてもそれをぴったり表すものがその言葉であればきっと最上なので採用してしまえばいいが、きっと心の奥から染み出してくる、自分の命名があると思うので、それを大切にしていただきたい。自分のタームを持っているというのは、ただそれだけで、魂が折れにくくなるものである。何の話をしていたのだったかな。何も考えずに、ぱらぱらとキーボードを打っていたら、また同じ話をしてしまった。いや、しかし、何回もする話というのは、重要な話であるらしい。では、私の主張の濃いところというのは、この辺りなのかもしれない。独り言を長々というのも、また祭壇的ですよ。

モノポリィ

帰ってきて、だいぶ落ち着いた。昨日帰ってから、すぐに、弟から某所のおみやげをもらったが、その一つに、お守りがあった。お守りとは、なんともいじらしいな、と一瞬思ったのだが、お守りにも効用がいろいろある。入浴剤に、様々な香りと色と効能があるように(昔から腑に落ちないままなのだが、入浴剤という形でも、湯の効用はあるのだろうか。成分が同じなら、あるのかしら)、安産祈願とか、商売繁盛とか。それが、今回はよりによって恋愛成就だったので、なんかこう、ギャグマンガ日和のむちゃっとした、榎本俊二漫画のむちゃっとした、あんな感じの心景表情になった。こう、俺に恋愛を渡すのか……という。申し訳ない気持ちになった。こんな品の無くて中身のとっ散らかった人間を兄として慕ってくれるとは、いや、これは、私が弟の前では清廉ではないにしろ、まともな人間をやっているからなのだろうが。とってもパステルなピンクを基調とした、たいへんプリティなカラーリングで、鈴とかまで付いているので、こりゃあどこにつけたのものか考えものである。……いや、どこにつけましょうね、本当に。ガラケーとかにも何もつけない主義なので、困った。帰ったら、その時に考える。買ったカミソリが、なぜか全然剃れなかった。剃れるからカミソリなのではないのか。漢字で書くと剃刀なのだぞ。ジレットの、ちょっと高いやつからしか置いていなかったからそれを買ってきたのに、なぜなにどうして、ただ肌の上をついついと滑ってスケーティングを見せるだけで、さっぱり髭が引っかからない。ジェルとの相性が最悪なのかもしれない。これまで、そういう事例に当たらなかったが、ものには相性というものがある。もしかすると。弟と一緒にやるゲームが必要だというので、私も少し金を出して、スイッチの桃太郎電鉄をやった。人生で初めて、桃鉄を触った。どうやったら桃太郎と電鉄を足し算しようと思うのか、考えてみるとふと不思議である。語呂はいいし、あのマスコットキャラみたいなやつが頭の中にインプットされているのでするりと受け入れられるが、言葉の方程式として見た時に、左辺が突拍子もない。何回かやってみて、イメージはつかめた。時々理不尽地理人生ゲームである。昔からこうなのか、最新のシステムで、ギミックが増えたからこうなのか、カードや一着目標となる地点との運命が悪いと、たちまち貧乏神がまとわりついて先行きがままならなくなる。一度上手く回ると、そう簡単には没落しない。たまにすげえカードがあって、それでひっくり返ったりするが。スイッチ版で絵柄が変わったらしいのだが、夜叉姫かわいいな……と思いながらずっとプレイしていた。

メンチカツ

今日は、帰省初日で、新幹線の中は開高健(名前の読みは「けん」だと思っていたが、新潮文庫のカバー裏には「Takeshi」とある。岩波の短編集の表紙サインはなんだったのか)の本を読んでいて書けなかったので、短く済ませる事とする。約1年ぶりに弟を見た。すげえでかくなっていた。同じくらいの間隔を空けて母を見た。こんなに小さかったっけ、と思った。

アブサン

明日帰るので、荷詰めのだいたいを、今晩のうちにやっておかなければならない。めんどくさい。すげえめんどくさい。この世の行為で、一番めんどくさいのは、引っ越しと旅行である。一番長い時間を過ごす環境が変わるという、その一点で最悪なのかもしれない。私はあまりにも家が好きだ。あるいは、他の環境に強い感情がないので、比較的に言えばそうなる、というだけの話なのかもしれないが。でも、カフェで読書という、行為のコードみたいなものは、どうにも納得できない。喫茶と読書という行為は、屋外では相容れないものだと思う。コーヒーの匂いとか、ケーキの匂いとか、周りの話し声とか、あまりにも「雑音」が多すぎる。文字という、情報量の少ない情報に真正面から向き合うには、環境として劣悪が過ぎる、との感想が拭えない。絶対無理である。電車の中で本を読むと、目的駅まで時間をスキップしたような気分になるが、これは、車内では必要最低限のアナウンスしか流れない(聞き流して良い)し、周りで人が話してないし、これは時勢的により一層そうだが、飲み食いする人がいないので、視覚聴覚以外の妨害がない。座れなかった時は、ちょっと疲れるので意識が飛ぶけれども。今読んでいるのは、開高健の「地球はグラスのふちを回る」である。酒は全然飲まないが、酒に関する、短いエッセイが大量に載っている。酒の事はどうでもいいと言ってもいいが、自分の好物を語っている時の開高健の文体が好きなので、や、小説の時の文体もめちゃくちゃ惚れ惚れするのだが、私が文章に酔うために読んでいる。酒の味わいについて語られているところは、感覚的にしか分からない。酒飲めねえしな……。ちょっと落ち着いて、また荷詰めの事を思い出してしまった。あーあ。やりたくねえな。トランクの中に、何回か前に使った、英国渡航の帰りの際、プラ筒に入っていたハーブが爆発して、その飛沫がまだ中に残ったままなのも気分を盛り下げる。タイムの香りが充満しているわけはないが、パラパラと細かい異物があるのは端的にストレスである。掃除機で吸ったはずなのだが、それほど減らなかった。表に出して、中を一回まるまるしばけばよかった。今、他に頭を悩ませているのが、風呂入ってからやるか、風呂入る前にやるか問題である。風呂に入ったら、間違いなくちょっと仮眠する。ゴミもいくつかまとめておかないといけないので、それを風呂に入ってからやりたいかどうか。やだな。

言行二値

鉄フライパンの扱いはおおよそ分かった。私の家にIH調理器と絶妙に相性が悪い事は揺るぎのない事実であるからして、それについて思い悩むのは止めた。ただし、問題点らしい問題点がひとつ、はっきりした。油を引いた後、最初に入れた具材以外は、火の通りがすげえ微妙なのだ。野菜、肉の順番で投入すると、野菜であらかたの熱が持っていかれて、薄切りみたいな肉でもない限り、表面はタンパク質が変質しているけれども、かじってみると中は赤光でてらてらしていたりする。さっき食った豚肉がそうだった。ひとつは、まあレアだと思って食えなくもなかったが、もうひとつは、ちょっと面倒を見切れなかったのでタッパに入れてレンチンした。なぜかラー油と何かの汁がいっぱい出てきて、これが調理かあと思った。ラー油は、調味料で入ってはいたのだが。あとは肉汁だったのかな。どばっと出てきたのでびっくりした。そういうわけで、冷凍しておいた肉を入れる場合には、あらかじめレンジでそれなりにしばいておかなければ、うっかり食中毒を起こす気がするなあ、との気付きを得た。覚えていればの話だが。飲めないのに買ってきて残っていた焼酎? 日本酒? は、料理酒として使う事でじわじわ減ってきた。今年中になくなるかと思ったが、さすがにそんな事はなかった。フライパンに入れたばかりの蒸気はかなり破壊力があるので、換気扇がよく回る。回ると言うか回す、か。あれだけ言ったので、部屋の掃除をした。掃除よりもあれだけ言っている本棚のあれこれは一切やっていない。掃除機をかけて、フロアワイパーをかけるだけだが。それでも、まあ、やらないよりは数倍マシである。掃除機は、中のゴミを捨てようと思ったら、想像していた通りというか、想像の数倍もわっともさっとしていて、頭髪と埃のコンプレックスジャングルが形成されていたが、燃えるゴミの袋の残り容積を考えて、そっと元に戻した。吸えるのだからまだどうにかなる。掃除機のゴミ溜めは、ポイするたびに、ものすごい音が出るようになるので、元々のスペックを忘れがちになる。フロアワイパーは、リビングキッチンに1枚、廊下脱衣所トイレに1枚使った。トイレは、奥の方までぱっと拭いただけなのに、埃がもりもり取れて、目に見えないだけで、というか私の目が悪いせいで、こんな事になるのだな、と思った。よく考えなくても、月曜日に新幹線に乗って帰るので、明日がおよそ今年最後のこの家で過ごす日になるのか。何も準備していない。