他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

生活排水を漉す

流しの排水が悪くなったので開けてみたら、過去最高に汚かった。油絵の具の、油が浮いて固まった部分みたいな、あの独特の薄茶色みたいなのはまあいつも通りだが、もやしの先っちょみたいな、大豆様の物質がいくつか見受けられた。最近、もやしを排出するような料理は作った覚えがないので、一体どこからどういうわけで我が家の流し台に流入したのか分からない。きちんと組成を確かめれば、あ、もしかしてあれか? 納豆と豚肉が入った中華調味油を料理に使っていたが、フライパンに油とともに残った納豆、あれが形を保ったままカゴの中で滝行を続け、油分が流された後も水膨れを続けていたのだろうか。それならば納得できる。納豆だけに。最近、辣油みたいなものばかり使っていたから、それで唐辛子のカスみたいなやつとかも含まれていたのだろう。今度、バイプユニッシュ的なものの錠剤でも突っ込んで消毒か開通かしてやった方がいいかもしれない。今日の手入れは適当だったから、洗いカスがぼろぼろ排水溝に落ちていったし。春菊を買って、炒め物に使っている。春菊といえば、鍋に入っている、好きな人以外からは嫌われるパーティキュラーな野菜筆頭との感があって、そもそも鍋以外に入れると美味いのだろうかという好奇心があった。末端を切り落としながら、そういえば天ぷらもあったなと思い出したのは秘密ではある。一年のうち、一体何回天ぷらを食べるだろうか。私は、9月くらいに、何かのデッドラインに追われまくった時、打ち合わせの場所を探してさまよいながら入った天ぷら屋で、アホ高い天丼を奢ってもらった記憶がある。今年度という括りで言えば、その一回しかない。もし、丸亀製麺に行って、何かの天ぷらでも取っていれば別だが、普段かしわ天しか取らなくて、あれは唐揚げなのか天ぷらなのかボーダーがよく分からないのでノーカウントとする。天ぷらと唐揚げの違いって何だろうな。フライパンに浅く油を溜めて、引っくり返しながら揚げ焼きみたいにする手もあるのだが、そこまでして揚げ物を食いたいわけではないし、総合的な手間とかなんとかを考えると、結局店で食うのがよいという結論になる。IH調理器の下の方も掃除した方がいいんだろうな。一回もやった事ないが。引っ越してきた時に、ペットシートでも引いておけばよかったが、あれがペットのみならず色んなものに転用できると実感したのはそれより後になってからなので時既に。『ぷりぷり県』を読み終わったが、これを今まで置いておいたのはもったいなかったかもしれない。私が好きなのは「テニスがゆ」である。おかゆに、テニスのセンターネットが刺さっている。意味が分からない。

県民ずきん

ここ数日、「フェチを感じる時、その向こうには特定の個人やキャラクターがいるのか、あるいは純抽象的な概念があるのか」を考えている。説明すると。例えば、下着フェチの場合、目の前にある下着への想念について、その下着という物を通して、名前がついていようがいまいが、何かしらの人格に対して強烈な感情を抱いているのか、それとも、ただその下着という物が終着点であり目的物であって、そこには人格的、動物的要素の一切が存在しないのか。どっちなのだろうと思って、特に進展も結論もない思案をしている。物自体が欲望の純粋目的語になりうるのは、いざそれ自体が手に入ると興味がなくなって埃を被らせたりする事があるから、理解の及ぶところはある。しかし、そこに性のまつわる欲動が絡んでくると、よく分からなくなる。今まで感ずるところのあった、吸収した事のある人格全てをフードプロセッサにかけたどろどろの人格のスープの中に、フェチを感じる時に遠望する事になるごたまぜのキメラがいるのではないか、という点が説明できない。何を言っているのか分からなければ、そのままにしておいて一向差し支えないトピックではある。が、私は、四六時中、それはもうスケベ心の有無に関わらずこういう事しか考えていないので、たまに喉越しの悪い問題を見つけると、落ち着かなくなってむずむずする事もあるし面倒臭くなって忘れてしまう事もある。頭の中にある、極めて個人的な思念の粘液を、言語で表現できる形まで整形しようとすると、それまですらすらと書けていた文章が突然ピタッと止まり、これをどのように言えばいいのか分からんちん、立ち往生状態になる事しばしばである。しかし、その作業こそが出力の他人への伝わり方を多次元的にためつすがめつするトレーニングになるので、時間が許す限りやっておくのがよい。どの程度まで離乳食に近づけるか、の問題もあるけれど。昨日、もはや「ムラムラ」と表現してもよいほどの内的圧力に突き動かされて買ってきた吉田戦車ぷりぷり県』であるが、これはもうめちゃくちゃに面白い。味のする虚無といった感じで、たまに、自分で何が面白いのか分からないのにケラケラ笑ってしまうコマがあったりする。こちらに全く反射してこない、隔離された強度のあるフィクションである。内容については、hard to explainなので、タイトルの音に面白さを感ずるのであれば、きっとこの漫画は気に入ると思う。ぜひ読んでみるといい。だんだん、異端であったはずのつとむがツッコミに回っていくのが、味の濃さを感じさせる。

夢見果てぬ

河合隼雄『こころの処方箋』を読み始めた。文庫本見開き2回で一ユニットが終わるので、元は雑誌の連載か何かだったのだろうか。まだ全然読んでいないのだが、「自分を殺し続けると、殺してきた自分自身に復讐される」という事が書いてあった章は、身をつままれて肉を全部持っていかれる感じがした。嘘だが。しかし、思うところはあった。幼い頃から、いい子いい人として振る舞い自分を殺し続けて来たのに、周囲からは自分勝手に振る舞う人、という評価をされて、思い悩む女性の話だったのだけど。繁忙期に突然早帰りしたり、場の雰囲気を損なうような発言をして平然としていたり、普段の行いとは逆を行くような間欠泉的行動が見られ、それこそが、殺され続けた自分自身の復讐なのではないか、「己を生かす」方がいいのではないか、的な話だった。私が目を離せなくなったのは、間欠泉的行動の方である。私の並々ならぬ下ネタ好みと言動は、もしかしてこいつのせいなのではないかと思ったのだ。いや、「せい」というのはよくないな。それ(傍点を振りたいが振れないので注記しておく)の表出が、その性向なのではないかと思った。違ったら、それに失礼だが。ただ、私が品性を疑うばかりの下品野郎という事になるわけだが。どうなのだろーうね。文庫で500円と少しばかりで手に入れられるが、むむ、そう言われるとそうですね、の気付きがたくさんあるので、これは万人に勧めたいと言いたいところであるが、メッセージを届けるのにもある程度の能力が必要だが、メッセージを受け取り意味を咀嚼するのにもある程度の能力が必要であるため、まあそこそこですかね、多分ね、くらいの温度感の人にはいいと思う。自分が提示する解答に、常に疑義を抱いていない人はあまり信用できないので。たまに思い出すのだが、ある奨学金に応募した時の面接で、あなたのポリシー(こんな安い言葉ではなく、根源原則みたいな事を、もう少し別の言葉で言われたのだが、当時体調が最悪だったので何も覚えていない)は何ですか、と聞かれて、「絶えざる自己否定です」と答えた。確か、この字面そのままにそう答えた。同じ面接グループにいた人はドン引きしたのではないか。一生懸命言葉を尽くしたおかげか、面白半分で可能性枠みたいなのに入ったのか、幸いその奨学金はもらえた。私が言いたかった事が十全に伝わった自信はない。なんでこんな事書いたんだろうな。帰り道、どうしても読んでみたくなって、本屋で探して吉田戦車ぷりぷり県』文庫版と、もろもろを買ってきた。本を増やすな。

錦糸卵にナイフで切りつけて錦を損壊する

腹の中にある違和感が昨日から消えない。物理的にではなく、精神的に。気持ち悪い。なぜだろう。自分を不快に焼くような感覚がある。腹の中で、自分を相手に、自分が魔女裁判でもやっているのだろうか。自分の肉は美味いのか。美味いか? 私は美味しくないと思う。図工の時間が終わった後の、水差しに入った、絵の具が千々に溶けた世界の色相の分裂。あの味がしそう。寒色系の。茶色って寒色扱いになるんだっけ。あれをうんこの色だと考えると、暖かい感じがあるのか冷たい感じがあるのか難しいところだ。ひり出したてほやほやのうんこであればあたたかい感じだし、道端で転がった糞害のうんこであれば水分が飛んで表面が乾いて熱量を感じさせる感じではない。うんこに感じるエネルギーは、人によって違うだろう。ぱっと思いつくのは、表面が腸液でねたついて、湿り気のあるブラウンをした、しなを作ったような外気触れたてのうんこである。外界に産み落とされたうんこを目にする機会はあるが、腸内で誕生を待っているうんこを目にする機会はない。私はない。便秘の医学的講義でも受ければ、そういう経験値が溜まる事もあるかもしれないけれど、あるいは殺人とその後の人体解体が趣味であれば、腹部を切り開いた時に茶色の粘糸が体内に突っ張っているのを見る事もあるのかもしれないけれど。見たところで、何か発見があるのだろうか。おしっこは、外気に触れなければ匂いもなくだいたい水だと言うけれど、うんこはどうなのだろう。直腸に鼻を突っ込んで嗅いだ事もない。嗅ごうという気もない。ただ、苛々して、あてどのないエネルギーが身体の中で不必要に渦巻いて心を傷つけてやまない時間は、目的もあてどもない事を考えてエネルギーを浪費して自分が憔悴するまである種の自傷に励まなければやっていられないし止まらないのである。なんて自分に優しくない精神構造と精神経済をしているのだろうか。あぁ。今日の夜は寝られるだろうか。明日もまだ用があるのだが。明日もまだ用があるのか! 木曜から日曜まで、用が整列して姿勢を同じゅうしているのなんて、いつぶりなのだ。目的を持つと自己崩壊を始める肉の塊なのに、こんなでは、文字どころか音素まで分解されてしまいそうだ。本質的には同じレール上に乗っているものではないけれど。ただ、文章を書いているだけで自分を台無しにして一人で落ち込むなぞ、七面倒くさい奴である。私が私でなかったら絶対相手にしたくない。身体は残念ながら人生向こう一生ついてくるので、あやし方を繕っておかないと殺しながら殺されてしまう。

袖を擦り合って、で、

友人に教えてもらったので、卒業制作を見に、卒展を見に行っていた。ナメくさって適当な時間に出発したら、や、これでも多少の余裕を見た時間に出たのだけれど、初めて訪れそして二度と訪れないかもしれない場所だったためなかなか危ない到着となった。道中、遅れたら入場用のQRコードが失効するのでやべーぞとの危機感を胸に小走りを挟んだりしていたが、別に必要なかったかもしれない。そもそも友人がどの学科に所属しているのかを覚えていなかったため、適当な建物に入ってそれらしいものを探していた。入場の時にパンフレットがもらえたはずらしいのだが、私は持っていなかった。素通りしたのか、バックヤードから出している丁度間隙に入場してしまったのか。迷っていたら、向こうからメールが来たので助かった。友人の卒業制作は、すごくよかった。私生活の断片ポートレートみたいな感じだったのだが、そこに添えてある文章がというか、そこに文章が添えてあるのがよかった。私は、結局、どこまで行っても文章の人間であるという自覚とも諦めともつかない感情が避け難くなり、作品のトーンと文章のトーンとが、同じ方向にあって融和している事がすごくよかった。あるいは、言葉には寄与する力があるとした友人について嬉しかったのかもしれない。で、知り合いのライターであるとか、そういう人がたまたま来ているから、話してみれば、と勧めてくれた。未だにふにゃふにゃしてよく分からないままよく分からなくなっている私に、手助けの一つにでもなれば、と思ってくれたのだろうか。もしかしなくても、私なんかにはもったいない友人なのではないか。いつも通りと言えばいつも通り、人と話す話題がないんだよもにょもにょと言ってはみたが、私の上長が人と人との繋がりという概念を体現したような人である事を思い出し、もしかしてこういう機会につながりって増えていくのかしらねという殊勝な考えを起こし、引き合わせをお願いしてみた。話をしてみると、二人のうち、一人の人とはある意味話があった。他の二人を置いてけぼりにして、私らだけの会話が盛り上がるというのをそう評するのであれば。私が普通の人にとってはエイリアンであるその方向性の一つに、偶然その人が被っていたからかもしれないが。連絡先を友人経由で交換してもらえる事になったので、また会うのだろう。会って、どうするのだ? 連絡先という言葉に、私は意味がついてこない。なんというか。こんな事を言う自分が大変アレだというのは分かっているのだが。人生を豊かにするのは人と人との繋がりであって、そして、私は、生き物に対する愛というか興味がほとんどないんだな、とうっすら気付いてどうしようもなかった。もう、人には向き不向きがあるのだという事にする。

絵潰し

昨日から洗濯物を干しっぱなしにしていたので、さぞかしよく乾いている事だろう。本来であれば、夕方の日が沈み始めた頃に取り込むのがよい。夜になると、外気に晒されてちべたくなるからだが、そこに至るまでのめんどくさいの壁を乗り越えられるか否かが焦点となり、大概、壁に反射した陽光で取り込む気は焦げてなくなる。昨日扇物語を引っ張り出した時に、まだ読んでいない、同時に買ってきたはずの西尾維新の本が2冊埋没しているのを確認した。なんという。それを言うと、多分5年くらいどこかで塩漬けになっている何かの本が、本が積まれているエリアの段ボールのうちいずれかに入っているはずなのだが、正直どれがなんなのか分からなくなっている。引っ越しの時、ごく一部の段ボールに関しては中身がメモに残してあるが、それ以外は、物質的には集積しているが情報的には散逸してしまった。そらのおとしものとか、どの箱に入っているのだろう。机の真横にある箱は、キルミーベイベーが入っている箱だと思ったら、なんか違ったくらいの記憶しかなくて、現在は箱天面に引くほどの物量が積み上げられているから、中身を確かめる術が片付け以外にない。その真下にある箱は、コンポを入れているはずなのだが、これもそもそも置く場所がないという致命的問題があるため出していない。ラックの最上段を片付ければ、乗せられる気もする。本質的に必要なものは、どこにも置かれていないと思うし。しかし、年に1、2枚程度しかCDを買わないのに(そして時勢的にはCDというのはどうにも時代遅れのものになりつつある気もする)出したって仕方がないという気持ちもある。私は、おそらく、音楽を文芸として捉えていて、またその枠組みを抜けられないまま死んでいくので、なおのことしようがないのではないかと思う。なんなのだろうな。『日本の包茎』を読み終わった。3〜4章の、雑誌メディアの無責任ぶりというか、己を貫くポリシーのなさ、そして包茎ビジネスをinventし過度に無用な劣等感を煽ったクリニック・院や専門家の矜持のなさ、清廉さの真反対が一番の読みどころだった。職業家としての自分に疑義を常に抱く、人間としての自分がいない人ってたくさんいるんですねと怖くなった。あるいは、良心とは不可逆的なものであって、一度磨耗すると、元の物量には戻らないものなのかもしれない。包皮を切除すると、元の長さには戻せないように。処女膜の再生手術があるのだから、現今ではあるのかもしれないけれど。あまりリカバリを念頭に置いて物事を進めるものではないですよ。

三つ葉が溶けて

頭の中で、「ワンダーランドと羊の歌」がずっと流れていた。日曜日、歩きながら、OFFICIAL ORANGEを聴いていたせいだと思われる。私は、あの時期が一番好きだ。歌詞の象徴界的性質とか、始終そこかしこに顔を覗かせる物語性のかけらとか。あるいは、このような場所でしかないような、ある言葉と言葉の結びつきから迸る意外性であるとか。誰の方も向いていない、極が自分のために回り続けるような閉じた自己完結性が美しかった。目的語がない、というのがいいのかもしれない。そこそこ晴れていたので、洗濯物を干した。いっぱいあったが、なんとか足りた。今日は、MPが足りている気がしたので、本の山に積んで久しかった『扇物語』を読んだ。奥付を見る限りでは、買ってから5ヶ月くらい経っていた。正直、物語シリーズに関しては、細かい事は全然覚えていない。主要パーソナリティについて、おおよその記憶があるだけである。読んだら本の中身をすぐ忘れる脳味噌は、シリーズ物を読むのに向いていないと思う。それはそれとして。西尾維新の文章はいつぶりであろうか、やはり、目で読むのが楽しい文章であった。声に出したい日本語というのは聞く事があるが、目で読みたい日本語というのはさっぱり聞かない。あるかもしれないが、今までのところ、ない。自分で組版までやってしまう京極夏彦ほどではないにしろ、字面が頭の中で反響させる音から導かれた洒落のあれそれとか、字面そのものを足がかりとしたあれそれとか、視覚的快の方が大きい、と思う。単純に、講談社BOX和文縦二段組が綺麗だと思っているのもあるけれど。あの組版は、とてもいい。ページ数がちょ切れそうなのが気になったりするけれど。あれはいい。それから、澁谷知美『日本の包茎 男の体の200年史』を読み始めた。真性であり、エロ漫画全てなべてファンタジーだと思っている身としては、人生で避けては通れない本であろうから。真面目な本なので、まだ半分も読んでいないのに早くも内容が頭の中から溶けかかっているが、当たっている文献の量とか質とかを見るに、たいへん地に足がついていて、すごい。あと、それに挟まっていた筑摩の新刊報があって、これの紙質がとてもいい。なんか、辞書と本文紙の中間みたいな、いい手触りがする。これが掛け布団敷き布団の質感であればいいのにと思ったが、布が紙の質感になると、実際は、けっこう気持ちが悪いものかもしれない。

パセリの花道

昨日は書くのを完全に忘れていましたね? なぜか身体が疲れていたのと、グラブルの生放送を観て、もう今日は寝ちゃお! と思ったのが原因だと思われる。寝ちゃお! と思ってから3時間くらい起きていたのも含めて。洗濯物を干したい日だったのだが、雨が降っていたし、昨日どこかで聞いたのか、雨が降るはずだというぼんやりした想念があったので、明日に持ち越しになった。明日も、なお晴れでなかった場合、大変困るのだけれども、そこはどうしようもない。自然という主語はでかいのだ。ハンガーが足りるかしら。今日の分のバスタオルはギリギリあった。今日は、糸が切れたように生産性のない日だった。自己分析の結果、私は自己分析しても結果に対して省察を与えるのがめんどくさいのであんまり意味がないのだが、誕生日に然るべき時間に起き然るべき場所へ行き然るべき用事を達成する、という極短期目標を充足し、その後を何も考えていなかったため、超・長期目標と言うべき「死」が眼前に広がるだけとなり、あ、めんどくせ、と思って理性が稼働をやめたものと思われる。私の行動値は、das lebenで使い果たされてしまうので、wie lebenまで手を伸ばす事ができないのである。興味関心の尿道が細いので、そんなにあれこれ目移りして飛び移る事ができない。私は、ひとつのフェイバリットを見つけると、ふとした拍子に訪れる「愛想がゼロになる」(尽きるとはまた違う感覚)瞬間まで、手が届く範囲にずっと置いている。あるいは、心の祭壇が小さい。そんなに多くを容れていられない。さっき、皿を洗いながら(皿らしい皿は一枚くらいしかなかったが)、好きになるものは、ジャンルではなく固有名詞だなと思った。比喩の話だが。そのキャラがよく分からないが魂の震え、直感的感得によって好きになるのであって、銀髪なんちゃらかんちゃらみたいな、要素の足し算という形は取らない、という。だからなんだ、という事はないのだが、たまに、誰かの頭の中でその人独自のOSで書き出された抽象的想念の絞りカスが、今まで形を与えられていなかった頭の中の綿ぼこりに突如として輪郭を切り出すような働きをする事があるので、もしかしたら私の考えているおからも、誰かにとってはドーナツにしちゃお、みたいなものかもしれないなと思って。なぜ、私は直接的一次元的言語で物事を捉えられないのだろうな。想像界が破綻したか放棄して、象徴界を考える横着をしているからかな。

かいわれの生えたスポンジ

川上和人『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』、読み終わった。ちょっと間を開けて読んでみると、身体の中に抗体ができたのか、あるいは私の根っこ部分にある伝家の宝刀の一本「めんどくせえから深く考えるのをやめるか」が閃いてずんばらりと行ったのか、残りは文章に対してつんのめる事なく読めた。鳥を研究の対象とし、鳥に対して感じる面白さが幸いにして止まる事なく、出会ったり会いに行ったりしているフィールドワークのessayとしては、かなりよい読み物だった。日常のふとした出来事について、頭の中のもにょもにょを言語を用いて展開していくのではなくて、対象が明確で、フィジカルに関係があったりするわけなのでね。エッセイではなく、essayと書いたところにも留意していただきたいが、これは私の趣味みたいなもんなので、別にいいか。これで、積んだ文庫の中で、残るはぐろぐろと円城塔の文字禍だけになった。多分。面白そうだし、読むのもMPを相応に消費しそうだし、困ったね。ちんちんを4つに分割した人の話とか面白そうだけれど。起きてもにょもにょしていると、今日出られるかという電話があり、申し訳ないが前々から予定があるのだ、私には珍しく予定があるのだ、無理ですごめんちょという断りを入れる場面があった。電話も珍しい事なれど、予定があるのも珍しい事だ。誕生日なので、いいところにご飯食べに行っちゃお、と思って、先週話を通しておいたのである。よく行動に移したものだ。電車に乗ってのんべんだらり、特急だったので字面と現実は些か異なるが、お出かけした。一緒に行かないか、と言えば、もしかしたら付いてきてくれるかもしれないしそんなところまで連れていくのも忍びない気がしたし、誰かを誘うという事がなかった。こういう時、人を呼ぶにあたっての後ろ向きさ、また選出元となる知人の貧困さが浮かび上がる。ま、情勢的に、会食というのはあまり勧められるものではないからね。一人で行った方がその辺諸々、ええんちゃうの、と思った。これはどこに行ってもおそらくそうなのだが、商店街と形容できそうな場所を歩くと、人が普通に歩いていて、普通に人が多い。そろそろ、自粛という言葉に詰まっていた重石がこぼれて、重みを失ってきたのではなかろうか。

Brasserie Etoile Strella(ブラッスリーエトワールステラ)(地図/川越/ビストロ) - ぐるなび

ここに行きました。フルコースを食べました。5品いっぱい出てきて、お腹がくちくなって、4400円でいいんですか、と思いました。おいしいよ。

青い顎

紹興酒、塩胡椒、酢、タイム、醤油、あといくつかの調味料を混ぜた調味液に、鯖を2枚漬け込んでいた。だいたい満遍なく浸かるので、ジッパーバッグは偉大である。だいたいなので、まあ、完璧主義的浸潤に固執するのであれば、なかなか険しい道が待っていると思うが。フライパンに開けると、紹興酒のすごい匂いがした。飲まないが、使うために買ってきた紹興酒、なんだかんだ役に立っている。一瓶400円もしなかったので、使い続けてもいいかもしれない。アルコールが飛び切らないと、匂いの主張が強すぎる気がするのは問題だけれども。魚を自分で食べる事はあまりないので、おさかないっぱい食べられてよかった。魚を食べて知能が退行する事も、水銀がうんにゃらとかあれば、ありうるか。私は魚と聞くと、スーパーの鮮魚コーナーで、「ラジカセで」鳴っていた、さかなさかなさかな〜さかな〜を〜たべ〜ると〜、のあれを思い出す。ラジカセというのも、どうなのだろう、ナウなヤング達には伝わるものだろうか。そもそものナウなヤングが伝わらなさそうだけれども。世代ではない流行り言葉は、私は漫画版クレヨンしんちゃんから学んだが、今は、最前線か、そのちょっと前辺りまで絶えず歩を進める事で忙しそうではある。そんなにcutting-edgeがえらいかねえ、と私は思うのだけど。アウトプットを水で薄める事だとすると、場に出たばかりのあれこれを摂取し、そのインプットによりアウトプットを行うのであれば、1に対して、1未満の正の数を掛け続ける事になるんじゃないかしら、と考えている。全部が全部、1未満の正の数ではないだろうが。なれば、今に比べて、営為・コンテンツの総量が少なかった時代に遡り、壁に手を当てながら迷路を歩けばいつかは脱出できるという方で生きていきたくなる。分からない話ばかりしているな。だが、伝達とは情報の取捨選択ではあるからな。誰かにとっての、理解のために欠かせない部品が、送信者にとってはノイズで、ポイされてしまう事もあるだろうからな。分からない話ばっかりだな。新しく買ってきた調味料が、なんかいい感じである。青麻(ちんまー)なんちゃら、というやつ。ラージャンだったか、全く別のカテゴリだったか忘れたが、ちんまーの部分は正しい。冷蔵庫に見に行ったらラージャンだった。青花椒と青唐辛子が入った、「超めっちゃ強い柚子胡椒」の味がする。柚子胡椒が思春期に突入してギラギラし始めた、そんな味がする。今のところ、何につけても美味しい。レンジでチンした蒸し野菜ともいけた。目玉焼きともいける。これだけ舐めながら、酒を飲む事も可能ではないか。単体としての味が強烈なので、あまり繊細なものには向かないだろう。しかし、アタリの部類である事は違いない。

leaf-wiping

今日は帰りが遅くなったので、あまり書かない事にします。たぶん、人生で初めてマックのてりたまを食べたのですが、なかなか悪くないですね。心のどこかで、これ別に卵いらんちゃうん、てりやきのタレと肉が美味いだけちゃうのん、という声があったけれど、まあ。サイドメニューは、チキンナゲットだとなんだか憮然とするが、ポテトだと、しかし、なんだかこれではないよなあ、という感覚がある。正解はどこにあるのか。ハッピーセットの、あれのあれが、大量に買えないとか、転売するなとか、入り口に色々注意書きがしてあった。シールやんけ、と思ったのだが、蒐集癖の程度によっては、まあ、そういう事もあるのかしらね。そういえば、ラブホテルの入り口にある、人工の観葉植物、アーティファクトだなあ、と思いながら見ていて、従業員のおばちゃんが、その葉っぱを拭いていて、私は衝撃を受けた。なんと! ただ、そこにインテリア(エントランスにあるのでアウトテリア? アウテリア? だけれども)としてあるだけではなくて、整備の対象として、偽観葉植物はあるのだなあ、と思った。世界の運行の仕組みをひとつ目にして、わ〜お、と思ったのである。

ぼちょぼちょぼちょ

まともな本を読もうとしてみたら、小説とかエッセイを読むのに比べて、スピードが半分くらいになった。なんなら、すでにして、まだ半分も読み進めていないのだが、もういいかな……という気持ちになり始めている。役に立たないわけではなさそうな本なので、多分通読まではすると思うのだけど、読み終わった時に内容を覚えているかどうか、かなり怪しい。益するところはあると思うので、読み終わる心算はあるのだが。森本あんり『不寛容論』。一応書誌情報だけは置いておこう。新潮選書というレーベルは、初めて買ったけれども、表紙のマット加工な感じとか、本文の版組みの感じとか、なかなか好もしい。本文の紙も、いい感じがある。二千円弱くらいしたが、題材的にも品質的にも、ま、それくらいはしても罰は当たらんな、と思う。本に対してだけ金銭感覚がゆるゆるなの、あまりよくないのだが。しかし、まだ読み終わっていない本が積んであるというのに、よくも次々と買ってくるものである。今は元気というか、精神がどちらかと言えば昂進状態にあって、何かしら生産的行為に携わらなければ潰れそうなのかもしれないが。言うほど、生産的行為のひとつだってしていない気がするが。夜、お布団に潜る時、人の匂いというか、人間の気配がねばりついてくるような感じがあって、そろそろ本格的に嫌になったので、シーツを洗った。掛け布団も敷き布団も洗った。人間の、人間的な部分が接地するところは、切り干し大根みたいな色になっているので、シーツを洗うとかそういうのではなしに、そもそもお布団を買い直すまでやってもいいかもしれない。ニトリのシングル寝具(どう控えめに考えても洒落になっている)なので、後ろめたい気持ちは薄い。いつから使っているものだっけか。2018……? らへん? 2016年以降、人生のスケールがぐちゃっと潰れて、だいたい全部同じように見えているので、年単位で細かく同定する事が難しい。一年ずつ、頭の中のぼんやりした気配を並べて、この年は〜、こんな事が〜、あった〜、ような〜、確かそうだよな〜〜〜? くらいの事はよくやる。この前、年齢を聞かれて、こっからここの、プラマイ2あたりの範囲だったはずです、というふわっふわの解答をした。早生まれであるから、その辺の計算がめんどくさくて仕方がない、というのもある。何ヶ月かぶりに丸亀製麺に行ってうどんを食べたが、かけうどんにかけるべき「何か」がどこにあるのか分からなかったので、レジ近くにあった醤油入れみたいな、正体不明の黒い液体をかけた。味はよく分からなかった。

超駆動痩身

日曜日あたりに、移動中マキシマム ザ ホルモン(ちゃんと両脇に半角スペースを入れた)を久しぶりに聞いてみたら、マキシマムザ亮君の歌詞はいいなとの感を新たにした。歌詞がメロディーに対してパンパンで、みちみちに詰まっていて、歌詞カードを見ないとほとんど耳で読解不能でありながら、テーマから溢れ出す質・量共にもりもりであり、これは余人の及ばぬ単独峰よなあ、と思う。自分でだいたいなんでもやってしまう、という、私が好きになりがちな人の癖もあるし。雨が降っている日だった。なんでもない天気であれば、前回の買い物できのこを買い忘れたり、そもそも野菜が尽きてきたのもあって、買い物にでも出かけようかと考えていたのだが、途中、雨が波となって街をざぶざぶ洗う音まで聞こえてきたものだから、これはちょっと堪忍やで、と外出を控えた。雨は、本当に、屋外へ向けてのバイタリティを低下させるのですごいと思う。雨が嫌すぎて、傘を使った最近の記憶がない。雨の中出かけて行くくらいならば、予定を翌日に繰り延べる。靴がそろそろ買い替えの時期な気がしてきたが、下着もそうだけれど、サイズを控えていないので、いつも、サイズが分からないならいいか、とめんどくさくなって買いに行く日がずるずると後ろにずれていく。親父は背が高くて足もでかかったが、私は背は大して伸びなかったが足は同じくらいの大きさになった。今の、さして高くもない身長で頭打ちになる前に蒸発されたから、今、実際に向き合うと、どれくらい見上げるようなのか、そういえば分からない。そんな事、そういえば考えた事もなかったな。精神的な体験を喪失したとばかり思っていたが、そういう、肉体的な経験の可能性も同時に失っていたのだな。そうか。変な事を考えたものだ。頭のいい人にものを教えるというのは、楽でもあり、苦でもある。目から鼻への通りがいいので、ある程度説明を尽くせば、あとは頭の中で勝手にかんかんかんと理屈が噛み合って理解が果たされるというのもあるし(噛み合った音がするというのと実際に理解し運用できるというのもまた別なので難しいけれども)、下手な説明をすれば健全な成長を阻害するかもしれないと思って丁寧な植生、舗装を心がけ、ここまで言っていいのかな、別にいいかな、という取捨選択の妙味もあり。私のような半端物を踏み台にして、将来の傑物が世に出ていくのであれば、私の時間など、いくらでも持って行ってほしいと思う。レティクル座妄想の『轍』、朗読箇所のように。

グラニーナタ

洗濯物を干した。大家さんがくれたバスタオルは、実家の台拭きみたいな模様だったが、吸水性は優れていてとてもよかった。タオル一般というのは、何回か使用して、洗濯を経る事で水に慣れていくという思い込みがあったのだが、そういうわけでもないのだっけ。母がそんな事を言っていたので信じていたが、ものによるという事なのかしら。もにょもにょ。ある一点について、茫漠と考えながら過ごしていた一日だった。さっき出力してみたら、想像に0をかけたような出来だったので、アイディアとしては最初から頓挫していたようだが。また別の事を考えよう。おおまかな方向だけ頭に入れて、見知らぬ町を歩いてみる時だって、行き止まりに当たったり、どう考えてもそっちではない方向に道が伸びていて引き返したりするのだから。方向という概念でさえおおまかなのに、それをさらに適当に把握するとは、いい加減にも程がある。初めて降りる駅では、目的地をグーグルマップで調べて、近くの目印になりそうな建物や店の名前を2、3覚えてから適当に歩く。経験のない町なのだから、マーカーになるあれそれもさっぱり見当がつかないので、よく迷う。年末は、東京駅の近郊で、さすがに迷わず着けるだろうと思ったら、東京都心の店舗密林状態を甘く見ていて、寒空の下を長らく歩き回る事になった。何の話をしていたのか忘れた。昨日あたりに、机横の物置スペースが一部崩落した。最近読み終わった文庫本をぽいぽい放り投げていたら、全体的な物理バランスによくない影響を与えたらしく、前触れもなく、部分的に欠けた。残った部分も静かに地滑りを始めていたため、片手で押さえつけながら、今からこっちをどうしよう、でも崩れ落ちた方もどうしよう、あわわわわわと思った。現状の生活スペースにめり込みうる書籍用スペースはもはや尽きたので、早急に押入れの中を整理し、物積みではなく物置きへの概念改良が求められるのであるが、文庫エロ漫画雑誌エロ漫画単行本洋書その他エトセトラ、判型パーティと化して愉快なバランスタワーが何棟もそそり立つ有様であるから、どこから手をつけたものか分からず持て余したまま放り出している。そのくせ、最近は本をもりもり読める精神状態になっているから、どんどん本が増える。支出入の計算がへたくそなのである。今月のLOを読んだが、猫男爵、まめぞう両氏の漫画がだんとつで面白い。それぞれ、現実のエロ漫画的解消・昇華、アナルメスガキ feat.長舌11cmと言ったところで、テンションが上がった。LOに関しては、もうエロではなく普通の漫画として読んでいるが、説明が難しい。説明はできるが、理解されるのが難しい。