他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

なおあまりある

またしても再び寝付きが悪くなった。おそらく、多分、きっと、理由は、夕方頃に眠くなって寝ているからである。その時間帯(16時〜17時くらい)になると、身体が突然、「バッテリー足りないんで落としま〜す」くらいのノリで、ぷつんと覚醒度が下がる。朝にそれほど目立って早起きをしているわけでもないのに、これは一体どういう事だろう。不思議で不思議で眠たくて仕方がないのだけど、原因も分からないまま意識がシャットダウン、処理中のタスク諸共暗黒の最中へグッバイトゥモローしてしまうため(19時を過ぎると目が醒める。「晩御飯作らなきゃ」という意識が働くようだ)、まあなんかどうでもいいやなと放って置いたら連日こんな感じになってしまった。忸怩たる思いでいっぱいだ。掃いて捨てるほどある。掃いて捨てるほどある、という謂いは、一応「いっぱいいっぱいあって、どんなに除いてみても以前そこにある、それくらいたくさんなのだ」という意味であって、それならばプラス、肯定的な文脈で用いられても良さそうなものだけど、どうしてだか否定的ネガティブな流れの中でばかり使われているように思う。「僕が君を好きな気持ちは掃いて捨てるほどある」「我が家は掃いて捨てるほどの子沢山だ」とは、言わない。言わない、と思う。「金は掃いて捨てるほどある」というのもあるが、これは否定的な文脈ではないにしろ、金の力にモノ言わせて(金がモノを言えば「チャリチャリ」という音だろうか? この音は小銭から発せられるものだろうから、札束にモノを言わせたいのだけど、札束はどんな「発語」をするのだろう?)権力その他諸々を嫌味な感じに振るうクソ重役ジジイみたいな印象がものすごいので、それは偏見ステレオタイプだと分かってはいるのだが、肯定的とはとても言えまい。金を積まれれば言ってもいいかもしれないけれども。こういうわけで、掃いて捨てるというフレーズを前向きな意味に置いてやるのは中々難しいのではなかろうかという気がしてくる。そもそも何がその試みを邪魔しているのかと言えば、ほぼ間違いなく「捨てる」という動詞であろう。throw away. dispose. どうも素敵なコンテクストの中で現れてはくれなさそうなverbの顔ぶれだ。それとも、「〜ほど」という程度を表す部分が邪魔で、ここを隠せば問題は解決するのだろうか? 「躊躇いなど掃いて捨てた」「塵ゴミを掃いて捨てた」どうだろう。ただ「掃いて」「捨てる」"sweep and dispose"という2つの動詞に分割されて、本来検討していた意味がどこかへ行ってしまった。難しいな。こんな議論、古今東西で掃いて捨てるほどされてきたのだろうか?