他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

人の内と書いて肉である。

今、七夕という概念を唐突に思い出した。何の理由もないが、本当にいきなり急に思い出した。思索の道筋に、思いがけず児童が飛び出して来た感じ。ブーン。この道を走ると、右にコンビニがあって、左にレンタルビデオ屋があって、その横には酒屋がある。あるのかな~と適当に考えていると、ぴょい。うお、お前は、お前は……。誰? いきなり出てきやがって何を考えてやがる。うん? 髪の毛にいっぱい紙切れがぶら下がっているな。わさわさした枝葉も飛び出している……。お前もしや、七夕だな? 7月7日。スロットでラッキー7大量のコインだばだばには一つ7が足りないのだけど、それはともかくとして。ゲームの中のイベントでもそう言えば七夕が取り上げられていた。それにもかかわらず。おやおや、そう言えば暦の中に存在しているのだった。その日は何をしていたのか全くもって覚えていないが、誰かにとっては何かしらの日だった事はおそらく間違いないのであろうと思われる、と断定と推測と憶断とその他諸々をごた混ぜにして置いておく。〇〇の日、△△の日というのは無である。そんなことを言えば、毎日毎日私にとっては「生きていた日」だ。翌日が前日を生き抜いた事の祝福となる。祝福。特段祝いたいとか幸福であったと特記したいのではないけど、証明というのか証左というのか、カレンダーの上で日々をなぞり、時間が右に進みましたよと感じられなくはない。生きた事はまあいいにしても、生き「抜いた」かどうかは疑問が残る。摘出しきれないガンのように。生き抜くとは何か。その日に絞り出せるだけの生体エネルギーを全て余すところなくひり出し、空っぽの寝袋みたいになって翌日を迎える事だろうか。自分が満足すれば、「今日はとても楽しく充実した時間を過ごせました! ★5つです!」と生きログに書き込める心境になれば、その日は生き抜いたと言えるのだろうか。抜くって何なんだろう。最後までやり遂げるという意なのか。そもそも生きログって何だ。日記とは違うのか。来る日も来る日も★5がつくような生活を送る人が、人生の範を求めるべき者になるのか。そんなサイトを見て、何かの足しになるのだろうか。誰かが過ごした日を、赤の他人が評価して、★1をいっぱいつけて滅入らせて、★5をいっぱいつけてつけあがらせて、ボロを見せた瞬間に引きずり降ろしたりするのだろうか。自分がした行いの尺度を、他人に投げ渡してはいけないな。歯茎剥き出してみっともなく噛み付いて、肉を譲り渡さないようにしなければ。美味しくなくても。それは俺の肉だ。