他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

列成す所以は並んでから

思い立ったが吉日らしく、思い立ってから立ち上がるまでがとても長い身としてはなかなか承諾しかねるところがあるが(吉日に字形が似ているから「古日(こじつ)」という言葉があるかどうか調べたらなかった。ありそうなのに)、今日は実行まで漕ぎつけたので、『まどマギ』を観た。テレビシリーズで全部ぶっ続けで観た。最初の何じゃこらから最後のうぇぇ……まで、特盛りのストーリーテリングを平らげた。今はとにかく「これには勝てないな」と思っている。正確を期すなれば、これ「ら」には勝てないだろうか。本物の大人たちが大鉈を振るうと、こんなものが出来るのだねと力づくのcraftsmanshipで納得させられた。ゴキブリやネズミは一匹いたら十匹いると言うが、アニメのキャラが一人いれば裏で十人くらいの人間が関わっているものなのかもしれない。一番敏感で一番表立っている伏線をあそこまでピンッピンに張り詰めさせながらも終盤まで切らさず焦らし解き放つ運びが素晴らしかった。数日前に西尾維新の伝説シリーズを読み終えたが、あれと同じくらい脳味噌が吹っ飛ぶスケールの話だった。今まであらすじについて想像していた時間を取り返したい。全部違った。うわぁ、うわぁ、うわぁ、であり、もしかしたらもう一回観返すかもしれない。とてもヘビーだったが、抱き石的な重さではなく、子供を負っている時のような重さだ。このまま真面目に重さを育てるのかどうかは知らんが、新たな度量衡を学んだような気分でいる。なぜヤード法が存在するのかといえば、ヤード法が存在するからである。メートルの民には親切とは言い難いが、なぜそれがそうなのかは中に入らないと、郷に入らないと分からない。「悪い遊びを覚えて、どんな連中とつるんでるんだか」と言い、それは事実で、遊びは人から学ぶものらしい。少なかったしそうしてこなかったから、分からなかった。悪かろうが品が良かろうが、こじ入るほどの間口が空いているだけで万々歳だ。脇を見せまいと隙を見せまいと裏に裏に回していたら、表も裏も行方不明になってしまい、スペアカードにさえもなれなくなってしまった。手札がオールブランクであれば、手札がそもそも何のカードなのか分からない状態では、そもそも勝負の火蓋を切って落とせない。ひとり、吸いさしの残り火で火傷して入るだけだ。人間はハリネズミではなく、ハダカネズミだ。それを分かってきたところで、ジレンマの投影が消えるわけではないにしても。