他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

まっとうな豆板醤は小さじ1で十分なので全然減らない

昨日はすっかり忘れていた。心身がそろそろバランスを崩しそうであるなこれは気をつけなければいけないよというアラートが鳴り始めたのが今朝で、朝ご飯を食べながら「あ、忘れてた」と思い出した。ものすごく綺麗に、一日の義務を受け止める頭の中の天網が恢恢ではなく、疎で漏らしていた。素で漏らしていた。うっかり、とか生半可なものではなく、財布をなくして一ヶ月生活し続けてしまえるような、その程度まで高まった失念と言っても良い。ただにひたすらに、デジタルで判別した時に、それに向けられた意識がゼロだったのである。たった一日書き忘れただけで大分指の動く速度が違うので、中学の先生が言っていた「勉強を一日する事を一日にひとつ米粒を加えていく事に例えてみると、長い目で見た時に、毎日勉強した人と土壇場でしか勉強しない人、どちらの最終結果がどうなのか、すぐに分かるだろう」なる訓話を嫌でも思い出すし、この話はなんとなく、よく分からないが覚えている。これが「電卓に『1+1』の式を入力して、一日に一回、『=』のキーを押す事にする。これを毎日やった人と、杜撰にやった人とでは、何年も後になると、画面に表示されている自然数の数は全く異なるだろう」という話だったら、記憶に残っていないはずなのだ。変な、そこまでしなくてもいい例えなので、それはそれで覚えているかもしれない。ただ、後々まで持つ意味の重さ、色合い、その他諸々がちょっと違うのだろう。つまり、一日にいちを足すか足さないかが意外と大きな結果の変動につながるという話であり、こう考えてみると一円を笑っている場合でもないかもしれないと思い、そしてそういえばさっきスーパーのレジで財布を開いたら札がなくて、危うくレジを無銭で通過してしまうところであった。こういう時にカードとは便利なもので、普段は「なんか嫌だから」と言って全く使っていないのだが、九死に一生を得るとでもいうのか、まるで蜘蛛の糸のように財布の中に存在していた。厳密には財布の中には数万円に上る紙幣が入ってはいるのだが、これは私の金ではなく迂闊に使ってよいものでは全くこれっぽっちもないため、ただの気休めにしかならなかった。人生でわずか数度目、数える程の回数しか「カードで」と言った事がない。昼に「カードで」と交通系ICカードで払おうとしたら、店員との間に齟齬が生まれ、微妙な空気になった。いつもは千円札2枚をとりあえずトレイに載せ、小銭をちまちまひっくり返すのだが、カードだと「スッ」とリーダーを通すだけで、2秒で終わった。リーダーが現金を持たない傾向にあるらしいと喧伝されているのは、「ちまちました事にかかずらわない」、つまり心に余裕がある、という事なのかもしれないと思った。