他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

百足

何回も使っているのに、それが「ただなんとなく使っている」だけなので、使っているものの要求水準を満たす事にふと失敗すると、頭が真っ白になって「なんでだどうしてだおかしいだろう」しか浮かんでこなくなる。普段手垢のついた馴染みのある事ばかりしていると、それはそれは事態の急転に弱くなる。だから誰か連れ出してくれ~と思うのだが、そんな機会が生じる隙間を与えないほどに錆ついている。さっき新幹線の改札を通った時、水準を満たさないものを拒む2枚の食パンに行く手を阻まれたので、一体私は何を失敗しているのかしたのか混乱して立ち往生した。原因は、乗車券しか持っておらず、特急券がないやないかというものだった。何回も新幹線を利用しているが、今だに乗車券と特急券の違いが分かっていないし、どうしてどちらか欠けただけで通れないのかも分かっていない。この間新幹線のチケットを買いに行ったトラベルセンターのおねーさんはそんな事言っていなかったはずなのだが、あれか、「空いてるなら席の分はいいですわ」を乗車券だけでいいですわと捉えられてしまったが故のこの事態なのだろうか。いや、いや、それにしても、トラベルセンターなんて場所で働いている以上、乗車券だけだと困るだろうみたいな事を想像しないものだろうか。いつも往復で帰省のチケットを買う時って、何枚受け取っていただろうか。記憶がない。……何枚もらっていたかなあ。新幹線乗車券は、新幹線に辿り着くまでのJR経路、あるいは新幹線からのJR経路分の運賃も賄えると知ったのは最近の話である。まだ品川を過ぎたくらいなのに酔ってきた。弱い。電車に乗って、特にやる事がないというか、やりたくてよしやろうと思うほどの熱情を抱くものを持っていない時は、心と頭を虚ろで満たして空心の極みに至って車内の広告をつらつらと眺めている。新しいものがあると、どこがどう、全体的にどう、など個人的な評価をほじくり出しながら鑑賞、あるいは批評している。庶民がうるせーぞこのやろーというのは承知で、今自分の手元にある工具で目の前の広告をバラし、一体何を得てそれをどう思うのか。電車の中でよろけないように重心を調整しながら、なんとなく見てしまう。その度に日本の広告、というかコピーの振りかざし方、あるいは構え方が嫌いだなあと思っているが、別に海外のものが好きなわけでもないし、ただイメージ重視で着地点が不明なミサイルの雨に降られるのが嫌なだけかもしれない。改札の2枚の板を、トースターから飛び出す食パンに例えるのは面白いと思うぞ。

 

 

愛着ってなんなのだろう。何かに愛情を着せる事なのか、何かへの愛情に着られている事なのだろうか。着るという動詞は、ほとんど受動態で使わない。愛情が着いているのだろうか。付着の着かもしれない。愛情を着せるのであれば、着せられるのであれば、サイズ展開はどうなっているのだろう。SからXLまで、それ以上はサカゼンで展開して。でも、愛着は「湧く」ものらしい。液体なの? 液体って着られるの? 分からん。