他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

流しそうめん直滑降

実家に帰ると、何をすればいいのか分からない。弟に求められるがままに遊んで付き合っているとなんとなく日が終わっている。私が終わっている。今日は、なんかやっといた方がいいんじゃないかと頭の片隅で存在感を放っていながらもそっと目を逸らしていた事に手を触れてみたところ、完全に惨敗したので、もう嫌になってゆるやかな昼寝をした。不必要な睡眠をすると、一日の終わりに布団に就く時に「あ、睡眠の質が悪くなるわこれは悪くなるわ最悪〜」と思わざるを得なくなる胸糞の悪さが頭の中で白んだ倦怠感が粘性を持った朝靄のように湧き出してくるので好きである。きちんと生きなければいけない人生の時間を棒に振りいい加減な生を送る瞬間に「ふへへ」という卑屈な喜びが鎌首をもたげてくる。夜空を見上げる超高性能望遠鏡がそこにあるのに、うまい棒の真ん中に空いているガッタガタの穴を通して空を見る適当な感じがしっくりくる。そこに補導された道があって、そこを歩く方が絶対楽なのに、なんとなく植栽の中を踏み込んで歩いてしまうような感じ。何も考えずに、あるいは何の目標も持たずにするすると、自重で丼から溢れていくうどんやそうめんのように流されるままに、しかし流しそうめんのように進む道は譲らず、カレーうどんのように自らの色を振り撒いてどこかに痕跡を残しながら麺類である事を保ち続けるにはどうすればよいのだろうか。自分の事を麺類で例えると何を言っているのかよく分からなくなった。麺類の中では、カレーうどんは滅茶苦茶に自己主張が強い方のパーソナリティを有していると思っている。鴨南蛮は斜に構えてハイカラな感じだろう。だって南蛮だもの。釜揚げうどんとかそうめんとか、絶対ストイックだよ。スパゲッティは総じて人生楽しそうだ。とは言え、全てのイタリア人が楽しそうという訳ではないという事を実例を以って知っているので、一概にこれがこうとは言わないでおきたいものだが、なんかバンドルで用意してまとめてしまうと事態が片付いて安心してしまいたくなってそうしてしまう。自分なりにタグつけ管理して、触れて来たものに対して私なりの評価をしていますよ、何かしらの役目を果たしていますよ、というポーズのためにやっているのかもしれない。これどう? と目の前に差し出されたものにコメントして、と言われても、どう言えば、どんな事を言えば求められている内容として水準を満たした事になるのか不安でえ、え〜、となる。