他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

over the clock

神社で合図の太鼓を聞いていた。なんとなく節目の言葉を言うのが嫌なので、「おはようございますおはようございます」と母弟に繰り返していた。実家の近所にある神社で0:00を迎えるのが慣習になっている。もう数年やっているので、やらない方が気持ち悪い。なのでやっている。去年何円入れたのかは忘れたが、今年は財布の中身的に5円で勘弁してもらった。額面ではない、信心である。顔ではない、性格である。無論、両者並び立った方がいいのは間違いないところではあるが。神社のでっかい鈴と縄を見ると、バナナマンのコント『different container』を思い出す。その中に「サオ取りタマ残しって、神社か」という旨のツッコミがあるのだが、あれを思い出してしまった。開幕早々めちゃくちゃに不信心砲をぶちかましていた。御神酒はもらわない。なぜなら飲めないからだ。100円をそっと置いて、適当に籤をとった。おみくじはなんだかんだ毎年引いている。正直2日の時点で内容を忘れているのだが、今年の分は読みようによっては致命的に人生に影響を与える内容が隅から隅まで盛り沢山であり、「ハッハッハこんなものあくまで信じるか信じないかの問題であって、真面目に取り合うべきものではないんだよ」と笑い飛ばすにはあまりにも今の境遇に対して一言仰っていた。しかも、その内容をどちらに読むのか、どう読むのか読むべきかが全く分からない。あくまで道はここにあってお前が思っているそれが道なのだと示しているのだけれど、さてそこのどれに足を踏み出すべきなのか、最後の一欠片だけが欠けた美しいパズルを渡されたようだ。そこだけは、自分で絵筆をとって仕上げなければならない。点睛だけを待ち望む画龍がそこにはあった。正直な話、うわあ、と思った。背中を押してくれるでもない、もやもやと具体的でなく咀嚼にさえ困るような霊体でもなく、それなりの実体を伴った上でそっと背後を取られるような、変な汗が出て生の写実性が増してしまうタイプのものを引いてしまった。たまに取り出して自分を戒めなければ、他に外部審議機構が何もない私の生活にひとつだけ画鋲を刺しておくために、財布の隠しポケットの中にそっと忍ばせておく事にした。どこを向くのも嫌になったら、これを見てさらに途方に暮れるためのツールにしたい。人は最後に主観が介在しなければならないのだと。帰りに食ったピザまんに、ちゃんとチーズが入っているのを視認できた。happy new year…