他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

着ぐるみを着て生活しているようなものなのか

起きたら洗濯物が雨に濡れていた。昨日流れていたラジオで「明日朝から天気が崩れる模様です」と言っていたのを昨晩の私は聞き流し、朝起きたら取り込めばいいじゃないと思った。すでに十分乾いており、室内に収容してもよかったのだが、もう少し夜気に当ててもいいかな、とスルメみたいな扱いをしたのが運の尽きだった。自家製のスルメや干物を作った事はまだない。他人の文章を読んでいると、どうしようもなくむずむずする。ここはこういう言い方の方がいいのでは、この助詞は違和感があるからあっちの方がいいのでは、などなどの思念が生起して頭の中でぐるぐるする。洗濯機のホコリ取り網(正式名称が分からない)みたいなところにそれらは溜まって、たまに取り出して検分してまた戻す。洗濯機の、ホコリが溜まるあの部分は、掃除してから3回くらい稼働させただけでほぼ元の木阿弥になるのだが、私はそれほどまでにホコリと生活を共にしているだろうか。確かに目を凝らすと衣類表面に繊維のような細い細い、誤差の産物みたいなミクロなホコリは付着しているが、それにしてもネットをかくも満たすほどについてはいない。塵も積もれば山は真実だとしても、その塵がどこから来たものなのか分からなければただただ気持ちが悪い。靴職人のおじいさんが寝ている間に靴を仕上げてくれるフェアリーと同じように、私には寝ている間に洗濯機をホコリで満たしてくれるフェアリーの支援があるのだろうか。塵が積もるからには小数点の気が遠くなるくらいの位で1を足し続けるような微増ペースを保って欲しいのだが、第2位くらいで1が次々加わり続けているような気がする。それとも、文字通りのハウスダストは、直感的に想像されるよりも遥かに多く大量で夥しいものなのかしら。おうちに空気洗浄機を一ヶ月設置して、フィルターの汚れ具合を見てから結論を出したい。話が逸れたが、というか逸らしたが(「話が逸れたが」という言い方ではまるで当人に非はありませんと言っているように聞こえるが、頭の中に浮かんだ脇道に飛び込むという最終的な決断を下すのは話者自身なので、他責的な表現でよろしくないのではないか)、彼我の間にある理想的、それほどでなくとも快と感じられる文章モデルは違うものかと気になったり悩んだりしている。ひょっとするとこんなのは水中で芥と流される小さな悩みで、流麗で無縫に流れるような文章を目の前にすると、じっとして読み入るしかない。