他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

実体を持った濡れ煎餅みたいなおにぎりを食べた

舗装された道路を歩いていると、変な箇所にくぼみがある。往来の真ん中にあったり、道の端っこに空いていたりする。その多くは何かしらによる損壊で、硬いものがぶつかって部分的に欠け飛んだり、抉り取られたりしたものなのだと思う。アスファルトが傷を負った理由はいくらでも想像できるが、想像したモデルが現実に存在するかどうかについては、実現の具体例を探さなければ分からない。一度引っかかるとなかなか色の変わらない信号を待っていた。雨が降っているので、普段は発生しないノイズが互いに何十倍にも膨れ上がって聴覚を刺激してくる。道路と歩道の境界に視線を落とすと、小さな、小指の先でくり抜いたくらいの穴があって、どこかから垂れてくる水滴が飛沫を散らしていた。首を上げると、高架の補強板みたいなところから、秒速2滴くらいの速度で雨水が垂れ続けていた。落下点は浅く、しかし確実に凹み、押し寄せる水滴の軍勢にわずかずつではあるが押し負けていた。滴穿というのは、石の上にも三年垂れ続ければ、本当に石を穿つのだなと思った。五劫の擦り切れも似たようなものか。木材にヤスリをかけ続けていると、いつのまにか一回り小さくなってしまっている事がある。なってしまっている、と言うか、小さくしたのだが、一度の研磨でフケくらいの分量しか削りカスが出ないものだから、小の積み重ねを大いに軽んじていたのだ。確かに、塵も積もる状況さえ用意すれば山となる。1円募金のように。パンを買いに行ったら、いつもの肉まん・ピザまんコンビがまたまたまたまた売れ残っていたので買ってきてしまった。こいつらがおつとめ品ワゴンに乗っていると、どうしても家に連れて帰ってしまう。そろそろ中華まんの季節も終わる。四季の中で、どのタイミングで「中華まん」が季語になるのかは確定しようとした事もないが、一番似合うのは冬だろう。お花見をする時、広げられたブルーシートの上に中華まんはないだろうし、夏の海の家で中華まんがメニューに載っている事はないだろうし、秋は微妙だが、団子にその席を譲る事だろう。そろそろ、売れ残るほどの量入荷される季節が終わるのだ。残り少ない交流の時間を、大切に過ごさねばならぬ。雑談をしていて、「そういう事に関心があるならこの本を読めばいいし、その分野ではこれが最高の本で、ついでにこれが絶対に避けては通れない本で……」と目の前に堆くおすすめが積まれていくと、全然知らない事だらけだと思う。本の中だけに真実があるのではないにしても。