他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

全ての信号機LEDをパプリカで置換する

台所に置いてある調味料の中で、擬人化して一番可愛いのはめんつゆだろうなと思う。醤油はプライドが高くて棘があってきつそうである。料理酒は、一歩下がった感じで大人しく、あまりひねたところがない。豆板醤はカラムーチョや蒙古タンメンばっかり食ってそうだし、とんかつソースはハマるところにしかハマらない局所的なやつだと思う。めんつゆは一番クセがなく(ストレートタイプなので)、交流の中で飽きが来ず(濃縮タイプなので)、いつの間にか長い時間を一緒に過ごしていそうである(入れても入れても味が決まらず満足しないから)。めんつゆの甘さとだしの匂いを嗅ぎながら考えた。私はめんつゆと結婚する。新聞を一週間だけ頼んでみたので、ぺらぺらめくって読んだ。めっきり活字情報メディアに触れる事がなかったので紙面を見るのが限りなく久しぶりだったが、情報媒体は情報を得るためのものであって文章を味読するものではないという、当たり前というか何というか、その辺の事実に気が付いた。文学作品と同列に置いて考える事がそもそも論外なのだ。論外ではあるのだが、『天声人語』を担当していた人の新書を読んだものだから(それでも1980年代くらいのものだったはずだが)、深みと旨味のある文章が載ってないかなあ、と目が皿になってしまう。なかった。各紙一面の左下にあるあそこが、こういう望みをかけてもいい最後の砦なのだが、「こりゃあすげえぜ」と思う文章を最後に読んだのはいつだったかさっぱり思い出せない。地元で中国新聞を読んでいた時は、ある時急に文章と内容の質がガクッと落ち、数日続けて観察すると、どうやら中の人が変わったらしいと推察できた。私はあそここそが新聞の顔、一番大事なよそ行きのパーツだと思うのだが、文章に何かしら審美的価値を見出す事はもう重要ではない潮に流されているのかもしれない。それでもなぁ……。綺麗な字は活字に居座られているのだから、こちらから文字に干渉できる最後の手段は文字の配列組み合わせを支配する事だけなのだ。最後の主権を譲ってたまるかと思わないでもない。グリーンランドだか、あちらの方にある自称独立主権国家よろしく、謳い掲げるのは自由である。流れるプール沿いに設置されている監視員用の席によじ登って、流れるもの浮いているものを眺めているつもりである。存在を失念していたトマト缶があったので、香草タイムと英国岩塩で煮込みを作った。この2つはとても相性がよろしい。