他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

教えられてあげられる事なんてあまりある

今日、世界の真実について一つの確信を得た。紛い物から、鏡に映ったものから、複写物から、真実の一片を知っていたが故に、真理が目の前を通り過ぎるとそれと気が付く瞬間と場合というのは大変多い。大事な事は全て小説や漫画やアニメから学んだと言う人もいるが、それもまた真である。確かに、間違いなく、疑いようなく、似姿は「似て」いる。街中を歩く全く知らない誰かが肉親に似ていたり、3つ隣の席に座っている誰かが知り合いに似ていたりする時、似ているがゆえに本物を想起させる。クレヨンしんちゃんコブラのマーチという名前のお菓子が出てきた時、コアラのマーチを知らなければ、そこにおかしみは生起しない。この人を迎えに行ってください、と写真を手渡されるからこそ、人混みの中からどの人を見つけ出せばいいのか分かるのだ。よって、そっくりにも侮れない価値がある。私が今日悟った世界の真実は、しかし、ここで口にのぼすにはあまりに低劣なので、墓場まで持って行くか、超プライベートな談話で取り上げるに留めたい。いつだかにどこかで聞き知って、ずっと頭にこびりついたまま離れない俗説がある。俗説が真実の似姿かどうかはまだ知らない。その俗説とは、めちゃくちゃ卑俗だが、「足首の細い女は締まりがいい」というものである。俗・オブ・俗、あまりの直接さに人の死体の谷ができそうなほどに俗である。だが、その強烈な低俗さのせいで、接着剤で面留めされたかのように離れない。今まで知らなかったのなら、明日から下を向いて歩けなくなればよい。足首が見えると、否が応でもこの命題を思い出してしまうからだ。忘れようとすればするほど、努めれば努めるほど逆効果になる場合があって、少なくとも私にとってはこのテーゼがそうである。何かをする前から疲れている、ような気がする。腰を上げようとする前から、「はぁ〜〜ねむねむzzz」が頭の中で旋回している。なぜ疲れているのか分からないが、分からない事を考えると疲れるので考えないようにすると結局もともと疲れているのでいらぬ無駄足を踏んだ事でぐったりする。数日前にも同じ事を考えたような覚えがあるようなないような気がするが、何かするから疲れるのではなく、何もしないから疲れるのではないか。ある程度の行動は、自覚的な疲労を意識化に押し込める作用があるのではないか。ビート板みたいに漫然と浮いているから、太陽の光を浴びて眩しいと不平を垂れているのではないのか。潜れば、ひっくり返れば、あるいは。