他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

里芋を煮っ転がし始めたら鍋から飛び出して坂を下り穴に落ちていったので追いかけるおじいさん

人の心というのは本当に難しいものだなあと思い知った挙句、心が難しくても難しくした状況はただ刻一刻と過ぎ行くばかりで、心の持ち主の方には何らの斟酌がないので、ああ大変だ大変だ、生きていくのは、いこうとするのは大変だと心の中で叫びながら色々やっていたら日が変わるギリギリの帰宅になった。目の前すぐに迫った明日もあまり余裕のある生を送れそうにないので、しかし余白がない故に描画可能領域で死力を尽くさざるを得ないがゆえに、生きているような気かあるいは心地がする。覆水盆に返らずとは言うものの、地面に這いつくばって唇をつけて吸い上げ、盆に吐き出す事は可能である。盆に返った水が、もともと盆の中にあった水と完全に一致するわけではないけれども、しかし覆水盆に返りません絶対にですと高説として垂れるにはいささか人間の恥の下限を見誤っている感がある。が、しかし、人の心は時に取り返しのハウツーが想像できない損なわれ方をする。しんなりしたなら水をかける事もできようし、膨れすぎたのであれば水を抜いてみたりマッサージをしてみたりと対処の仕様があるが、目に見えないほどの破片に崩れて砂漠に散って風にさらわれてしまった時、手の中にどう取り戻してやればいいのか咄嗟には分からない。急に通り魔に襲われたり、自動車が突っ込んできたりしても、まあ動物的本能で何とかなるやろと思っていたのだが、さすが現実は小説より奇なりとはよくぞ言ったもので、それが生起してしばらくは心がいたたまれない状態でむずむずして、脳味噌が演算の答えを出し渋るのだが、しばらくを経た後に突然、ああ、あれはそういう事だったのかと状況証拠や居合わせた周りの人間の反応から何となくそれとなく窺い知る。自覚のタイミングを自覚的に与えられないところが、これ心理という感じがする。風船が割れた時、手元に残ったゴムくずで、たまごアイスをうまく食べ損ねた時、口や服に飛び散ったべとつきで、遡及的にそれが起こった事を知る。突然の災害になど、大丈夫やろという思い込みで対処できるはずなどなかった。震度2でいちいち天を地への大騒ぎをしていたら身体も心も保たないが、揺れた事実だけは確かに感得しておくべきなのであった。錆びた水道栓に体重を乗せて揺すると、完全に枯れたわけなのではなく、まだぽたりぽたりと雫が残っている事に安心する。目の前に水がなくても、地下水があるという安心感に慰められる。日本語が聞き取れない事もあるのだなと、思って飲み込めないままでいる。