他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

心には沸点の特殊なアイテールが詰まっている

見られる事によって興奮する、というのは、ある種の真理である。これは何もMM号的な話ではなくて、というかそちらの話に聞こえたのであれば興奮という言葉の色合いに桃色を強く読み込んでしまったからで、そうではない興奮の話をしている。観客のいないパフォーマンスは空虚への一人語りだが、受け手がいるからこそ反応に一喜一憂するのだ。湧いたり泣いたりしているのを見ると、全身の血液が爆熱を持って狂ったように上への方向性を持って迸る瞬間を、ある人はなんとか冥利だとか表現していたけれど、一度味わうと絶対に完全には忘れられない。生きている事のテンションが重力に打ち勝つ、数少ない瞬間である。事は必ずしも劇場的な場面に限られず、周りに人がいなければものごとが捗らない、という人がいて、それに対する自分なりの消化と吸収を本日の悟りで得た。周りに人がいる事で、彼らと場所を同じくする以外の関係性が存在しようがしまいが、視線が交錯する緊張が主観的に生まれるのだ。くしゃみをすれば共有されるし、通話をしようものなら、こちらの発話だけは全て共有されうる。ともかく痴態を晒すまいという意識が多かれ少なかれ生起するわけで、これを自覚した上で作業に臨むとぽつねんと静寂の中で進捗を重ねていくよりも捗る場合がある。人の話し声がうるさいだろうがと思っていたが、熱中してしまえば、正直、そんな雑音はどうでもよくなる。没入を許すまで、見られているという意識・状態が意識の洗練を手助けする。残念ながら第三者的環境は流動的で刹那的なので、継続的に深度を伴った集中を常に許すわけではないのだが、しかし少しばかりのゾーン体験をもたらすという意味では、「スタバでMac」を頭ごなしに色のついたテンプレートとして振りかざしバカにするものでもないなと思ったのである。たった今『キルドヤ』のスタドヤを思い出したが、あのゲームスタッフ、いやもっと具体的にシナリオライター諸兄は今どこで何をやっているのだろう。いずれにせよ、衆目の中に身を置くと、集中できる精神状態の日もあるのだな、と学習したわけである。スタバではなくて小汚い建物の一室における感得だったが、もしかすると、私が経験しなかった「ファミレスで勉強会」などの特殊な条件を満たすと発生するイベントも、そのような生理的自覚を持って催行されていた効率的な方法だったのかもしれない。いや、それとも、関係性を見せつけていただけ、かも。