他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

数珠繋ぎの儀

新幹線が卸したての自動車に似たあの匂いを発していて、あの形容しがたい非人工的が好きではないし、地下鉄の新車両もそう言えばこの匂いがした覚えがあって、頭の基底を手の届かない範囲からがんがんやられているような心地があってそれはまあ頗る大層苦手である。印刷所にかけた印刷物が来ていて、やっぱりデータを弄っているより実物で届いた方が達成感とか手触りがあってこの瞬間だけ心がぽっとひらめくのだけれど、想定よりも背表紙がゴツくなっていたからささやかにびっくりした。印刷所の背幅計算シュミレータだと確かに6ミリと出ていて、ちゃんと定規を取り出してメモリを検分し、なるほどこれがその実数値かと確認してからはっはっはまさかそんな事はあるまいと笑い飛ばしたのが先週の話だが、まともな事をやっている印刷所が冗談みたいな数値を寄越してくるはずもなく、まごうかたなき6ミリ少々の重みで届いた。そりゃそうだ。先取りの妄想が許したよりも遥かに重く、でかい方の箱を持ち上げるにあたっては腰をいわしそうになった。嫌な色の稲妻が、頭の中で擬似的に明滅した。本を読んでいると、自分が主語として膨張しているかのような感覚を得られて、今目の前にある文章たちを従属文の下に従える事ができているような錯覚に酔う事ができて、これはとっても気持ちいいなと気がついた。文章を読むにより何がしかの癒しを得たかのような心地になったのはそのせいであったのだと思われてくる。いや、逆に、文章がそこにあるのに従容と従う事を強制してくる、その隷属が心地よいのだろうか? こちらから働きかけようにも、活字として固着させられてしまった文章が作用を許さない、その絶対的環境と関係性が。そこにぽつんと点として垂れて、寄っていかなければ寄ってこない孤島に足を運び探検の労をとるその作業に、ただ冒険という事実だけを与えてくれるその作業に甘んじているのではなかろうか。知らんけれど。目的地に着くにはあと数時間もあるらしい。図書館に駆け込んで引っ掴んできたいくらかの岩波文庫がカバンに仕込んであるし、これは少しく失敗した、なぜならこれほどの分量を読み終わらないだろうしやたらかさばるページ数のものを見繕ってしまったからだ、最近覚えた悪い遊びもある。時間の使い方というのは、本当に、時間を使う人の一存と采配と才覚と、色んなものが滲んでくるものだなあとの感が日々深くなるばかりなのだが、色のついた水を面倒臭がる性根をスリッパの裏側でひっぱたいて、集めたまま褪せるばかりのそれとかあれとかをミョウバンに漬けるなりホルマリンするなり、どうにかしてえよなあと水に映った顔が言っている。