他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

銅線の詰まった弁当箱

図書館の岩波文庫棚を適当に眺めていて、これなら面白そうかなと手に取った谷崎潤一郎随筆集をちまちま読んでいる。そもそも谷崎潤一郎の筆になる小説を読んだ事がないはずなのだが、随筆という事は人柄というか、恐らくそこまで憚らず筆を振るっているのだろうとの見込みで読んでみる事にしたとか、なんかそういう経緯だった気がする。私はモノに対する鼻がいいのか、そこまで壊滅的なハズレを引く事が少ないのだが、この随筆集は、最近感じていなかったタイプのアタリ、あるいは新種と言いたい。文学作品の評論については、私の頭が評論とか論文とかの方面にてんで頓珍漢だから正直よく分からないのだけど、懶惰(「らんだ」と読むらしい)に関する稿であるとか、東京人と大阪人の比較であるとか、そういえば現代文の文学史で覚えたような気がする、谷崎潤一郎まさにこの人のものであった「陰翳礼讃」であるとか、時間をx軸に取った時に、江戸時代まで行かなくともほんの少し遡るだけで全く別の生活圏世界、もはや全く別の器官を持った人間に出会えるのではないかと空恐ろしくなるほどモダンには露も残っていないあれやそれがだくだくと文章の中に溢れているのを感じる。厠という言葉を知っていて、お手洗いトイレの事ねとまでは知識が及ぶが、じゃあそれが家屋のどこに位置してそこまでどう行ってどこがどういう作りでエトセトラエトセトラ、という事になると、そんな経験知にミリも手垢をつけた事がないと分かって引っ繰り返りそうだ。厠の掃き出し窓なんて言われても、具現化して導出しなさいとの問いに回答できる自信がこれっぽっちもない。まるであたかも別世界を覗いているようで、私はこれを、もしや小説として読んでいるのかもしれないと思えてくる。かの有名な「陰翳礼讃」(名前くらいは知っていると思うのだが……)だって、高尚な概念論だとか横文字の議論を引っ張ってくるのではなく、いちいちみみっちいまでに具体例を挙げて日本と西洋、亜米利加の「かげ」について考えていて、ははあ俺は文楽も能も歌舞伎もさっぱり分からんなと無知の百烈拳でどこを見ればいいのか分からない。相当のレベルで日本は組み変わったんだろうなと想像は逞しくなる。夢見ているだけでは筋肉はつかないが。谷崎潤一郎御仁の文章は、私の文章みたくふらふらして感覚的な表現がたくさんぶらさがって、なんだか正中線で切り込んでこないふやふやさがあり、なんだか似ているのですごく読みやすい。