他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

田園風景と電柱

誤字脱字はこの世で最も許せないもののひとつだが、自分もたまには犯してしまっているだろう過ちである事を考えるとそこまで強く出られない。出られないが、誤字脱字を目にするとその途端に自分の中からヒュッと確実に、何か抜け落ちるものがあり、一度取り零すと二度と掬い上げる事叶わないそれだから、できる限り袂を擦る回数は減らしておきたい。誤字脱字でこそないが、さっき書いたメールに分かりづらい指示代名詞があったので具体的な名詞に置換したり、送りつける前に再度軽く目を通すくらいの心の余裕を常に確保していきたいわけだが、これは心の余裕と言うよりは狭量であり執着であり、寿命を縮める作業と化している可能性がないでもない。大らかな手で送信ボタンをはたきつける事叶えば楽だろうが、やはり己がひとつなりとも字面の過誤を生産してしまった事実でただでさえ少ないMP(メンタルポイント)がもっと削られてしまうので、抑圧と削減の間で消耗しながら諦めの道を進んでいくしかないのである。何日か前に、暇潰し用にと開高健全集一巻を借りてきた。暇潰しと言ってしまうと、アーティストはあなたのバックバンドではありません的な化物語のあれを思い出してしまうが、しかし、物語を賞味する能力と気概と余裕と、諸々の気質を失ってしまった身としてはやはりこれは暇潰しだろうと断じざるを得ない。だろうなのに断ずるとか言うな。まず装丁がとてもかっこよくて、ドイツ圏のコトテン(事典)みたいな赤と黒でキマっている。そもそも、単行本という形式で手元に置かれると、内容はともあれその重量感とある程度確保された格式で固くはないが柔らかい離乳食みたいな唾を飲み込ませる圧力がある。一巻、初期のものだから、短篇選に入れられていたようなアッとするプロットや手づかみはないのだが、早いうちから、あの、感覚が肉塊になって言語野へ提供されていたような強烈な地の文、比喩の物質的な説得力はあったらしい事を感じて、喉越しを楽しむゼリーみたいな読み方をしている。物語に感ずるところはもはや薄いが、言葉で巧みに切り出された原石に触れると心地よい事しばしばである。すげえ褒めるが、開高健の文章には一生頭が上がらないくらいの厚みがあるのだから、この厚みは是非とも撫でさすり願わくば向こう側に穴が開くまでビリケンさんしてもバチは当たらなかろう。これを生むバックグラウンドを想像した時、自分が華山用の無味なスポンジにも及ばないのではないかと身体が震える。