他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

外見、あるいは肉体的変身

また寒い日だった。でも、日の沈み方には季節感があった。18時に外を見た。ちょっと前だと、18時、まだ18時かと思って外を見やると、とっぷり暮れていて調子を外したものだが、今日はまだ明るく、しばらく明るく、取ってつけたような水滴がぽつぽつと感じられた。結局降るには至らなかったようなので、通り雨未満の何かだったわけである。夕暮れから夜の暗さに落ちていく時の、境界の濃いネイビーがきれいな色をしているなと思った。朝、目覚ましよりも10分早く目が覚めて、頭をずるずる引き摺りながらぐだぐだしていたら、目覚ましのアラームは通り過ぎたしまたギリギリ一歩手前くらいで傾斜5°くらいの緩やかさで起きた。ゴミを捨てるのは忘れた。外出回数が極限まで削ぎ落とされたので、玄関まで行く回数さえ減り、玄関にまだ捨ててないゴミ袋を放り出したままである事も忘れていた。家の中の事であっても意識に上らなくなる、プライオリティが下がるというのは、これはなかなかよろしくない事な気がする。夜に包まれる前に、ぷらぷら歩いていると、開いている店が少しだけ増えていた。息をしているんだかしていないんだか分からない、ちっこい居酒屋は7割くらいの客入りだった。まだ緊急事態宣言って解除されていないんだっけ? 自粛をやめたら、それはなかなか無視できないスピードで病魔に蝕まれていきそうな気がするが、しかし飲食店なんかは客を入れなければやっていけないわけで、特に居酒屋みたいな「場」の性格があるタイプは、やらないのも正しいしやるのも正しいという真っ当なダブルスタンダードが成立してしまい、難しいわねと思う。難しいという結論は結論に見えて結論ではないのだが、作業仮説的なとりあえずの担保性はあるような気がする。ないかもしれないが。もう2ヶ月くらい、営業していないラーメン屋があるが、あそこは金銭的な意味で大丈夫なのだろうか。この局面が後押しとなったのか、ただ被っただけで遠因なのか、長く知っているラーメン屋が近々店を閉めるらしい。少なくない入れ替わりというか、ステージアウトが、どこでもあったしあるんじゃないだろうか。日本語ではない言語の歌詞や詩行を見つけて、面白いなこれはと思うと、どうにかして日本語に写せない(移せない)かどうか考えるのだが、当たり前な事に言語が違うため上手くいったような感じがない。かの米原万理は、ロシア語のことわざに対して、でっちあげの日本語ことわざっぽいものをぶつけて説明する事もあったというが、写像にどれほどの精度を要求するのが真っ当なのやら。精度なのか?