他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

デパ地下の地下

開高健『日本三文オペラ』をちょっとずつ読んでいる。タイトルがすでにかっこいい。やっと舞台と登場人物が、浮かび上がってきたかな、くらいなので、物語全体がどうなるのか、どうなっていくのか、さっぱり分からない。分からないが、ぎゅっと詰まった、雲古様の生肉をごてごて裸の手で転がすような文体は実に心地がよい。一体、頭の中でどのような文体が混ぜ合わさって掬い上げた時、このスタイルに煮詰まるのか、さっぱり分からんのだね。そして、地球はグラスのふちを回るを読んでいると、口語調の、関西方便がぎとぎとした文章も書くようで、振れ幅を持っている事に感心する。開高健は、私の中で、評価は必要なく、すごい人であるという階梯にあるようだ。今までの人生で、そういう人は、本当に少ないのだけどね。何人か、片手の指でいいから、大事に抱えておけると、心が本当に危機に瀕した時、うずくまってやり過ごせるようになる。あれは古代ギリシアアフォリズム的なものだったと思うが、paideiaは識ある人にとっては隠れ処になる、という謂いがある。paideiaは、教養とでも言うべきものだが、教育を受けた結果というか、定義しようとすると人生がいくつあっても足りないので、プラトンアリストテレスあたりの専門書でも読んでみると、世界が広がるかもしれないし別に面白くなくて心に棘は残らないかもしれない。この話は何回か、あるいは何回もした事がある気がする。で、私が「心の祭壇」を持っている、という話も同じくらいしただろうな。これは、心酔というか、全面的な肯定、無条件の文化的服従ではないのだが、その人/その人の作るものが、魂の方向性を決定付けているような、自分にとって欠かす事のできないcriticalなもの、これを運び込んで大切に保管している、自分が神官となって、自分だけが全貌を把握している、秘密の部屋、みたいなものか。そこに行って籠って、しばらくじっと、死んだようにじっとしていると、なんとか人の形を取り戻せる最終防衛地点、そこをそう呼んでいる。私は。しっくり来なければ、いや、他人のタームを使っては、それが自分のものではなくなってしまうので、どう考えてもそれをぴったり表すものがその言葉であればきっと最上なので採用してしまえばいいが、きっと心の奥から染み出してくる、自分の命名があると思うので、それを大切にしていただきたい。自分のタームを持っているというのは、ただそれだけで、魂が折れにくくなるものである。何の話をしていたのだったかな。何も考えずに、ぱらぱらとキーボードを打っていたら、また同じ話をしてしまった。いや、しかし、何回もする話というのは、重要な話であるらしい。では、私の主張の濃いところというのは、この辺りなのかもしれない。独り言を長々というのも、また祭壇的ですよ。