他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

パセリの花道

昨日は書くのを完全に忘れていましたね? なぜか身体が疲れていたのと、グラブルの生放送を観て、もう今日は寝ちゃお! と思ったのが原因だと思われる。寝ちゃお! と思ってから3時間くらい起きていたのも含めて。洗濯物を干したい日だったのだが、雨が降っていたし、昨日どこかで聞いたのか、雨が降るはずだというぼんやりした想念があったので、明日に持ち越しになった。明日も、なお晴れでなかった場合、大変困るのだけれども、そこはどうしようもない。自然という主語はでかいのだ。ハンガーが足りるかしら。今日の分のバスタオルはギリギリあった。今日は、糸が切れたように生産性のない日だった。自己分析の結果、私は自己分析しても結果に対して省察を与えるのがめんどくさいのであんまり意味がないのだが、誕生日に然るべき時間に起き然るべき場所へ行き然るべき用事を達成する、という極短期目標を充足し、その後を何も考えていなかったため、超・長期目標と言うべき「死」が眼前に広がるだけとなり、あ、めんどくせ、と思って理性が稼働をやめたものと思われる。私の行動値は、das lebenで使い果たされてしまうので、wie lebenまで手を伸ばす事ができないのである。興味関心の尿道が細いので、そんなにあれこれ目移りして飛び移る事ができない。私は、ひとつのフェイバリットを見つけると、ふとした拍子に訪れる「愛想がゼロになる」(尽きるとはまた違う感覚)瞬間まで、手が届く範囲にずっと置いている。あるいは、心の祭壇が小さい。そんなに多くを容れていられない。さっき、皿を洗いながら(皿らしい皿は一枚くらいしかなかったが)、好きになるものは、ジャンルではなく固有名詞だなと思った。比喩の話だが。そのキャラがよく分からないが魂の震え、直感的感得によって好きになるのであって、銀髪なんちゃらかんちゃらみたいな、要素の足し算という形は取らない、という。だからなんだ、という事はないのだが、たまに、誰かの頭の中でその人独自のOSで書き出された抽象的想念の絞りカスが、今まで形を与えられていなかった頭の中の綿ぼこりに突如として輪郭を切り出すような働きをする事があるので、もしかしたら私の考えているおからも、誰かにとってはドーナツにしちゃお、みたいなものかもしれないなと思って。なぜ、私は直接的一次元的言語で物事を捉えられないのだろうな。想像界が破綻したか放棄して、象徴界を考える横着をしているからかな。