他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

nepotism

昼から調子がよくなかったので、畳んだ布団の上に乗って、電気が眩しいので半纏を被って、3時間くらいじっとしていた。寝ているような瞬間もあったし、寝られねえかなあと思いながらもじもじしている瞬間もあった。その後結局持ち直さないまま今までずるずる来ているので、今日はもうそのまま終わるのであろう。洗濯機を回したら、すすぎと脱水の中間でエラーが出て、水をそそいではぐるぐる回ってエラー音が出て停止、というのを繰り返していた。安かった割に長年使い続けているから、耐用年数的なあれとかこれ的な問題が出てきているのかもしれない。もし洗濯機を入れ替える必要が出てきた場合、前の方に置いているあれとかそれを人目につかないところに移動させなければならないのでめんどくさい。乾燥までやってくれるやつにすれば、雨の日でも部屋が湿っぽくならずに、や、雨が降ると湿っぽくなるのは道理なのだが、過度に、ならずに済むのはいいかもしれないけれど。洗濯機に金をかけるかというと。また、では何に金をかけるのかというと。なんだろね。読む本がなくなったので、また本屋に行かなければならない。今月の新刊も知らないので、明後日か明々後日かくらいに見に行こうか。読んでいない本がまだ積んであるのだが、それと読む本がないという命題とが両立可能である事は、不思議だが真である。開高健が挙げていた小説やルポを買ってみたり、なんかの文庫を適当に買ってみるのでもよいが。三月頃、終わりあたりは、内面的に躁だったのだろう。多少の自覚があった。多少という言葉、自分で自己矛盾を孕んでいるな。自己乖離性の何かか? more or lessというやつも、引っ叩いて退場させたくなる。分裂と統合の失敗を見せないでほしい。連休が始まるくらいから、それはもう見事に躁ではない方への移動が感じられた。落ち込むほどではないが、風景がどこまでも白く、どこまでも何もない、自分が小人となってスプーン上白糖の中へ放り込まれたような、漂白された無気力と時間の漏出を眺めるだけとなった。無意味、無為に慣れると、焦りが湧かず、砂糖と塩を間違えたなめくじのようにてろてろと輪郭が失われていくから、可能ならば躁の方でいたいのだが、あっちはなかなか現れてくれず、言うなれば、氷山の一角型なのであろう私の中にいるやつは。でっかい袋に入っていた冷凍の鶏肉いっぱいが、今日なくなった。期限を過ぎても冷蔵庫の中にあったが、事実上の冷凍エリアに存在した事でダメージをある程度免れたのだと想像される。