他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

金の握らせ方

時間をおいて考えると、井上ひさし『モッキンポット師の後始末』は、とてもいい本だった。読んだらたちまち、その筋を9割くらい忘れる私が、まだだいたいを覚えている。これはすごい事なのではないか。また、これに関しては、丸まま引き写したくなるような一節があとがき(正確には「あとがきにかえて」だった)にあり、これが心にまだぐわんぐわんしている。一部だけを引いてもこれを損なうものであるし、滋味ある文章を残しておくのに気兼ねは必要ないだろうから、以下に出色の部分を抜き出しておく。

「各時代の種族、階級、国家、団体の思潮を体現する象徴的な人格が英雄であり、それらの団体の危機をひとりの英雄が救済するという願望は、団体の成員ひとりひとりが危機の克服に疲れたときにあらわれる傾向がある、といわれる。つまり人間がすべてに疲労し尽くしたときヒーローがあらわれるのだ。「ヒロー」と「ヒーロー」とで語呂合わせをしているわけでは決してないが、英雄的な楽天家であり、英雄的な勇敢さを誇る日本人にもすこし疲労が見えてきたように思われる。

 疲れた日本人の歴史的危機をいったい誰が救済するというのか、それは皆目わからぬが、そいつはたぶん独裁者としてあらわれるはずだ。その英雄的独裁者のあらわれる時をすこしでも先へのばすためにも、私はドジで間抜けな主人公を次から次へとつくり出して行かなくてはならない。それらの主人公たちが、疲れた人たちの疲労をやわらげるのに、ほんのすこしでも役に立てば、これこそ作者冥利につきる。」(昭和47.10.8付読売新聞掲載)

題材やキャラクターがどんなにちゃらんぽらんしていても、作品の後ろに敷いた理念はていねいで芯の通ったものであるのが井上ひさしのすごいところであるが、このあとがき代理から感じる、社会の気配の把握と、言葉の選び方については敵わない。中学の時の国語の先生が、井上ひさしを評価していたが、あの時つられていくらかでも文庫を読み漁っておけばよかったと思うところがある。

じゃがいもを買った。じゃがいもは使いづらい。米やパンの栄養群と同じだし、じゃがいもに強く見い出されるようなチャームを、私はまだ発見できていない。出ればうまいしおいしいが、自分では食べない。なぜだろう。水で洗って、包丁で皮を剥いて、水にさらしていると、下ごしらえがめんどくさいからではないかと考えた。ピーラーを買えば、多少まともにはなるが。豚バラと煮込んでみたが、うまく味が染みなかった。煮物はいまだによく分からん。