他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

魔法にときめかないための心

近所の店に、状況があれなのでアルコール出せません、との旨記載した紙が貼ってあって、それはまあいいのだが、その文言が、「アルコールの提供はご遠慮いただいております」だった。私はここに、知性の欠如を見た。これが言い過ぎなのであれば、反省の欠如と言ってもよい。「アルコールの提供は遠慮させていただいております」ならば、提供を自粛する動作の主語は店側であるが、現実の文面では、客が店に向けてアルコールを出すような主客関係になっている。無理矢理整合性を求めて解釈するのであれば、ご遠慮を再帰動詞として、日本語には-selfとかsibiとかがないから記載されていないものとし、(私どもが出した)アルコールの(お客様自身への)提供はご遠慮いただいております、となるが、この解釈の苦しさは首を吊ったようなもので、要するに原文がおかしいのである。大型というには少ししょっぱい大きさの屋外モニターで、何かの何かが、〇〇で人生が180度変わりました! と言っていた。なるほど。人生が転換した事、あるいは程度の大きさを表すのに、角度はしばしば引き合いに出されるもののひとつである。180度は一番よく聞くが、270度とか90度とか360度というのはとんと聞かない。聞かないわけではないが、無視して構わないような母数である。人生が変わる時は、180度変わるのである。180度というのは、つまり、半円分度器の一端からもう一端に、正反対を向く事を言っているのであろう。彼らが言うのは、鈍角だとしても、100度でもなく150度でもなく、178度でもなく、180度なのだから。すると、彼らの人生を形容する言葉というのは、全て反転する事になる。暗かった人生が明るい人生になり、貧乏だった人生が富裕な人生になり、生きていた人生が死んだ人生になるのである。生きていた人生は、あるいは、死んだようなもんだった人生から、生きている「ような気がする」人生への転換かな。なぜか、人生が転換する時は、真反対を向かなければいけないらしい。ちょっと方向を変えたり、寄り道したり、つまずいてずれたりするのではなく、それまで見ていた景色が見えなくなる方へ向くのである。これは、過去の自分の放棄であり、脱皮であり、殺害であり、埋葬であり、これらのうちどれかである。脇目に見えるちょっと前の自分とか、遥か昔の自分が遠くに見えたりとか、そういう、多層的自己認識ではなくて、都度、まっさらの、積み重ねの何もないぺらぺらな自己認識風景のために。