他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

ごはんに乗せて、切り開くまでがオムライス

そろそろ流しを掃除しなければならないのだが、細菌というのは勤勉だ。ちょっと掃除しないとすぐにょきにょき姿を見せるし、赤とか黒とか緑とか茶の色があるし、少しでも水が飛ぶとすぐさまそこに居着くし、逞しい。常に開拓民スピリットを持っている。現代では開拓と言っても望むべくもないので、望むとしたら宇宙か地球の内側になるか、彼らに手札の数で負けている気がする。茶のうち一部は、鉄鍋を洗剤と水で浸け置きした時の、錆が残っているのだろうが。茶っ葉を片付けようとして、網を持って、ぺっぺっと水を切ったら、いつもより入れた茶葉が少なかったので、力学に従って中身がバウンドし、流し一面に飛び散った事があった。昨日か一昨日か。今考えると、急須の蓋を閉めたまま、押さえてぺっぺすればいいのだが、あの時は取り出してそれだけでやってしまったんだなあ。不思議な事に。そうやって茶葉の水気を追い出すと、急須の中に、冷えて緑色に濁った、濃い、ちょっととろみがかったお茶が出てきて、まだ飲めるんだろうなと思って、たまに飲んでみるが、風味が飛んでいるし、欠片が網を通過して出てきていて、飲めたものではないと言うのは言い過ぎだが、あまり飲むものではない。濃いお茶が好きであれば、あるいは、と言ったところか。今日は、主体客体を入れ替えるとこういう風になって、とか、その操作で訳しやすくなるんじゃないのかな〜という話をしていた。自分の世界認識というか、認識叙述において、いつの間にやら文法用語が混じってくるようになって、これは日記を読み返せばうっすら察する事ができようが、おそらく去年の秋か冬かくらいから、そういう現象があったはずである。その辺で、象徴界そのものについてなんぞや、と特に考えていた時期があったので。今は、自分の事を、象徴界に入れてもらえない代わりに、その「熱」に灼かれた灰だと思っているが、そのイメージに到るまでのちまちまがあったのだ。本屋で見かける翻訳文学を読む気がしないのはなぜか、について答えを得たのもその時期だったような、これは春頃だったような。柴田元幸だとか、柳瀬尚紀(後者は若干ならざる留保というか、スタンスの好き嫌いがあるが)だとかの少数の例を除くと、原語から日本語に「置き直された」だけであって、姿勢とか座り方とか挙措とか服装とかが、日本語のそれではないというか、訳者がそれにしていないからだろう。借り物の猫であって、我が家の猫になっていないのである。この問題を解決するのは、自分の言語運用能力を涵養して原著で読む、であって、つまり、並大抵の事では妥協を避けて通れない事になる。