他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

もやしのしっぽ

夜道を帰っていた。空気がべちゃべちゃしていやだ。暗かったり、街灯で暗くなかったりする道を、子供が歩いていた。こんな時間に帰るとは、塾か習い事か、気を付けてくれよと思った。そのかなり前方に、歩きスマホをしているおっさんがいた。歩きスマホをしている人間の格好は、よく分かる。後ろから首を叩っ斬っても、本人は気付かないまま死ぬんじゃないかと、本気で考えている。前にも後ろにも、自分の命を投げ出している姿勢だ、あれは。他人に対しても自分に対しても無責任なありようだ。邪魔だし。男児とそれの距離感を観察していると、どうやら親子らしかった。さっぱり構われない少年は、道をあっちへ行ったり、自販機の横の、開閉ハンドルにぶらさがってみたり、マンションの共用ゴミ箱を開けようとしてみたりしていた。たまにチャリやら自動車が突っ込んでくる路地なので危なっかしい。気を付けてくれよ、きみ、と思いながら追い越して、さらにおっさんを追い越すと、ちらと後ろを振り返って、子供の姿を確認していた。耳にはワイヤレスイヤホンを着けていた。カスのダブルパンチである。私は、よっぽど、それを面罵してやろうと思ったのだが、硬直したカスは打てど暮らせど何も響かないので、そして通念上あまりに行動が突発に過ぎるので、心の中で思うに留めて、ぱらつき始めた雨から逃げるように走り出した。私が、連れ歩いている時、子供の相手をしない親を嫌いなのには、いくつか理由がある。大きなひとつには、子供に愛情を注ぐ事を惜しむな、と思っているからである。動詞は、他の、かけるとかではいけない。注ぐでなければいけない。私は、それをしなければならないと考えているし、それは変わらないと思う。人間は、おおよそ、経験した事しか人にしてやれない。実際にした事があるのでもそうだし、頭の中で相当の強度を持った主観的現実でもそうだが、卵を入れないとオムレツは作れないのである。子供が、無条件に、自分を受け入れ、大切にしてくれる時間というのは、欠くべからざる要素である。自分が大切にされた事がないと、自分が大切であると自認する行為は難しい。参照するべき経験がなければ、構築と習得の負担を強いる事になる。拡充と充溢は前向きになされるべきであって、マイナスからスタートするものではない。陶冶の機会の棄却と、学ぶべき点のないしらけた背中に、私はこんなにも怒っているらしい。