他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

球根はチューリップがきらい

そんなに、生きる事に対して一生懸命である事はできない。一生懸命という言葉に対する、実感というか、自分の内から出てきた言葉であるという実感はないし、一生ないままだと思う。しっかり、などの副詞と同じく、これを使ってくるやつがいたら警戒するくらい、中身がないし、ただ強いるだけの言葉である。や、他人が言うのまで含めるのはやり過ぎかもしれないが、少なくとも、私は、この言葉は、xenosのまま、alienのままだと思う。もしこれを、実感として持っているのならば、私はその人の事が苦手だと思うし、逆もまたそうだろう。生を燃やす事にエネルギーを燃やせる人は、私には分からない。そこにどのような属格がかかるのであれ。今日は、もにゃもにゃした事が書きたいので、終始、そのようなもにゃもにゃした事を書くとする。運動場の砂を木の枝でいじって何物でもない形を描くような、電車が来るまで駅のホームを端から端まで歩いたりするような、トイレットペーパーのミシン目を、ひとつずつ丁寧に切り離すような、そんな作業を。そういえば、松濤の新しいデザイナーズ公衆便所をこの前見たが、卒塔婆のおばけみたいだった。あるいは遠目に見ると、くず木材がつんつんと突っ立っているだけで、スタイリッシュというよりは、真新しい材料を身にまとったミノムシが地面に突き刺さっているようだった。便所でもないし、心に訴えかけるものでもなく。雨風に打たれて、時間が経てば、あの木材は汚い、公園の、端がちびて中が腐った、チョコレートケーキみたいな色のベンチと同じようになるのだろう。どろどろの色になって、はしっこが無理やり立たされているような。夜の色に溶ける甜麺醤のように。生きるのは、まだましだが、生活というのは分からない。生きるだけならまだいいが、そこに加えて活き活きという作業が加えられると、立ち往生してしまう。手でネジを締めるのはいいが、電動ドリルでどんどんビルを建てろと言われているような気がする。緩んだネジを、ちょいちょい触るだけの作業ではいけないのかしら。側溝の、油光りするドブのように、のたのたとしていては、尻が叩かれているようだ。絶えず、アップデートと、新しいものを強いられているようだ。気に入ったものが、擦り切れてもなお、廃棄の他ないかもしれんと考えるくらいにちびさせたいのだが、そんなディスポーザブルな、薬局で買ってその日のうちに道路端に捨てられるビニール傘みたいなもんを追っかけて、楽しいのか。