他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

かしこい鈍器

ガリヴァー旅行記を読み終わった。最後の、フウイヌムの章は一番面白かった。馬が理性的存在であり、人間が家畜的存在である土地の話だ。ケンタウロスなどの馬的人間、馬人ではなく、「馬」がそうである所の話。フウイヌムから帰った著者の幻滅と憔悴は、なぜだか私の心の中に思い当たるところがあった。ともかく、ああ、確かに、この本は、古典とされるにふさわしい本だなと思った。少年少女向けのナメた本では、どぎついところが省略された抄訳になっている事も少なくないそうだから、是が非でも完訳で読んだ方がよい。著者から出版代理人に宛てた手紙に書いてある内容を理解すれば、抄訳などするはずがないのだが。奇しくも同じ時にレジに持って行った広辞苑が、この本を楽しむにあたって、これほど役に立とうとは、思ってもいなかった。辞書を都度ぺらぺらめくる事など、日本語に限って言えば、小学校の中学年あたり以来の経験ではないか。ともかく、多少の言語をかじって母語に戻ってきて、その辞書を繰ってみると、これほど面白い事もそうそうない。上下は「じょうげ」の読みしかないと思っていたが、「しょうか」という読みもあって、こちらの読みだとやりとりをするという意味もあり、議論を上下するという例文が載っている。向こうの人生、これだけで暇を潰せるのではないかと思うほど、私はこの辞書を素晴らしく思っている。昨晩、寝られないので、巻末についている協力者一覧の名前を眺めていたら、あ、この人知っている、あら、この人も、まあまあまあまあと驚いた。サブカルチャーという括りはよく分からないが、サンキュータツオの名前もある。中身としてはそれなりにナウくなり続けているようだ。しかし、それはそれとして、辞書の序文を読むのも、好きなのだが、広辞苑の序文を読んで、私は、立ち往生した。分からない知らない言葉がばんばか出てくるのである。第七版の序から、私が引いた言葉を拾っていくと、慫慂、回禄、読めないやつ、濫しょく(偏が角に、傷の右側が旁の字)、目睹、エトセトラエトセトラ。辞書なしでラテン語ギリシア語を読めと言われているような気持ちだった。母語は分かるもんだという根拠のない自信を木端粉砕する数ページだった。宇宙について分かっている事はまだほんのわずかで、ほとんどがダークマターだと言うが、母語についても、これは、同じ事が言えるのではないかと、私は思った。知っている語彙は、この言語のもしかして1パーセントにも満たないのではないかしら、と。