精神が放散し続けている。放散という言葉は一番現状を表している。ばらばらになって、どっかに行く。なんだか、この人はいつも元気だな、ブレーキがねえのかな、と思っている人が、実は発達障害らしかった。あの人から受ける感じは何かに似ていたが、そうだ、知人の母親と同じだったのだ。いつも、見える範囲では邁進していた。増えた、というより、見える範囲が上がったというのが実態だろう。母数が増えれば増えるほど、ある要素が発生する数も当然増えるのであるから。共生が謳われるようになってから共生の輪郭が曖昧になっている。同じような事が、いくつもいくつもあった。森鴎外『ウィタ・セクスアリス』を読み終わった。タイトルから勝手に、全く根拠なく、ドイツで幼女とセックスする話だと思っていたのだが、全然そんな事はなかった。なぜそう思っていたのか、過去の思考回路に聞いてみたいくらいだ。vita sexualis、ラテン語で「性欲的生活」。発表当時は掲載誌が発禁を食らったそうだ。私は、人がどういうセックスをしているか聞くのが好きだ。その人が、観念的な存在物ではなくて、生き物だと解釈できるからかもしれない。義務教育課程から古文漢文がなくなるらしいが、日本人の精神充填物から漢学の素養が失われた事、分からないものがある状態を抱えながら分からないと思い続ける体験を放棄する事、私が言う意味で、さらに精神を貧しくするようである。人生の贅肉は必要肉であるのに。