他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

シャレにならない子分

また雨が降っている。梅雨入りしたなんてニュースを見たような記憶があるが、さすがにこれは勘違いかもしれない。記憶に対して勘違いという言葉を使うのは、なんとなく間違っている気がする。でも、寒いとは思わなくなった。蒸し暑いとかなんとか、日本の夏についてくる、そういうあれこれが浮沈している。ここ一ヶ月ほど、牛乳をダメにしてしまうようになった。私の精神の低調とおよそ重なるところがあるような気もするが、ともあれ。人に話をする時、あれ、発話法が変わったなと思うようになった。話そうと思っている事を頭の中で用意して組み立てるのは今までと変わらない(そして話す事と保存とが両立できないので何を話そうと思っていたかは概して途中で忘れる)が、身体の動きとか、声の調子がついてくるようになった。ついてくるというか、つけるようになった、なのかもしれないが。なんとなく、うっすらと、小林賢太郎のあれこれとか、バナナマンのライブとかを観ていたのが、何年か越しに経験として濾過・消化され、精神に同化してきたのではないかと推測している。私は、血肉になるのが極めて遅いタチなのである。生まれる時代を間違えたかな、という思いは、昔からずっとある。近年は特に、ハイ出した、ハイ反応どうぞ、ハイ次、といった感じの世相で、私は飯を食うのもおっそいから、もっとゆっくり食えばいいのにと思うし、なんでそんなに新しいものばっかり食いたがるのかも分からない。筑前煮はおいしいし、かぼちゃの煮付けだっておいしい。今日思いついた喩えは川だった。川下りが好きな人は、常に川の最前線にいるが、川の細かいところは知らない。どこそこの暗がりには丸太が沈んでいるとか、カエルの卵が産み付けられている場所とか。私は川端をもっくりもっくり歩いて釣りをするような者であって、川下りをする者ではない。これとて私だけが納得するそれなのかもしれないが、どうもこういうのを量産しなければ気が済まないというか、これは持病なのだろう。ほぼ全てがイメージに置換されて、本質を喪失するのは。私は、自分のペースで飯を食いたいし、自分のペースで自然を散策したいと、こういう事である。Amazonで注文していた、ブラウザのブックマークに4年以上眠っていた柳瀬尚樹のエッセイが届いた。中古だったような気がするけれど、表紙は結構綺麗で、しかし背表紙と裏表紙にかかる一部が全く白く焼けていて、よくこれまで生き残っていたものだと思った。そのうち読むと思う。