他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

艶冶

一体これは他の言語に翻訳するとどうなるのか、という作品作家は結構いるしある。ジョイスの諸々は柳瀬尚紀によって、日本語領域においては到達地点が見えたような気がするが、開高健の感覚と言語が一緒くたまぜこぜになった文章とか、野坂昭如のリズムや固有の言葉回しなど、どうにかなる問題なのだろうか。なるのか? 何%の達成度、という形では表せるかもしれないが、100になりうるのだろうか。言葉において全くの等価を期待するのは、連なる言葉が増えるほど困難になるため、翻訳の窮極にあるのは原典への帰還になるような気がする。ミイラ取りがミイラになるようなもんで。それではナンセンスだから、そこを白丸にした線分で話をしなければいけないわけだが。昨日のと同じ本に入っていた、『死の器』という短編があった。私の野坂昭如経験で『エロ事師たち』を超える事は向こう絶対にないと思っているが、これはとてもいいと思った。短くて読みやすいが、内容は突飛だし、しかしやっぱりどこか見覚えのある温度の低さというか、曇り気がある。命が輝いているが、輝かしくない。もっと早く野坂昭如という作家に出会っていれば、と思う気持ちもあるが、この人の書いた小説を受け止めるためには、これくらいの時間が堆積しなければならなかったのだという気持ちもある。好きな作家は誰かなあ、と考えた時、開高健野坂昭如が最初に出てくるようになった。死ぬまでに入れ替わりはあるだろうか。私は、たくさん挙げる事に意味を感じない。人によるだろうが。多分、カルピスが飲みたいと言われたら、原液を出してしまう人間なのだ。煮詰まるまでものが言えないのかもしれない。あるいは言葉を尽くすか。ケルシー先生もパラスも好きだ。真理とはどのような形で提出されるのか。