他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

ブロンズバーグ

ドライアイと不眠が背中と頭上にべったりひっついている。あれ、寝ないの、寝ないのかな、気持はこんなに眠いのに。存在感をつっぱらかして、そこだけ元気な眼球に違和感を覚えながら、寝てるんだか寝てないんだか、寝てはないな、横になって気を失ったような気がする、そういう時間をやり過ごしている。しばしばある、恐らくは私の精神疾患的なものであり、季節の変わり目によく発生するそれだが、もしかして毎年この辺りになっているんじゃないのか。そうでもないのか。今日と昨日の区別があまりついていない人間にそんな事を聞かれても困る。基礎工事をやってから音沙汰ゼロ、コンクリの基礎部分がひょろひょろしていた真隣の区画が、ついに工事が始まった。朝から、作業員のおっちゃん兄ちゃんが雨にあぶられて世間話をする他ないのが聞こえてきて、そう、話というのは感覚の合う人とやらないとダメだよなという今まで何回噛み締めてきたか分からないするめの味を思い出した。合う合わないというのはデジタルな話だから、白黒はっきりついてしまう。受像帯が狭かったりずれていたりすると大変だと思う。布団の、上半身が横たわるところが、茶色くなっている気がする。シーツに染みた汗がそう見せているのか、ぼこぼこに酷使されている眼球が疲れて色を幻視しているのかは分からない。天気予報は一週間先まで曇りか雨マークしかないし、梅雨入りの宣言も聞いてしまった。この世に、入って嬉しいものなどあるのだろうか。婿入りとか嫁入りとかか。一概に嬉しいとは言えないよな。骨壷くらいか。しかし、墓に入らない人も増えてきた。どうやって弔われるのが、生きているうちに納得できる方法だろうか。粉にして、茶碗蒸しに混ぜて食べてほしい、とか、粉にして、漆喰に混ぜて、家の壁に塗りこめてほしい、とか。殻を作って、やどかりやかたつむりにあげてほしい、とか。骨をそのまんま、投げて取ってくるだけの、犬のおもちゃにしてもよい、とか。死んだらなんもないなるのか、というのは、死んでみないと分からなくて、分からないのにあれやこれやと言いたくなるのは、もうそこが想像創作の領域だからなのだろうか。何食ってもいいなら何でも好きなもん食おう、という気持ちというか。どうせなら楽しい事を、みたいな気持ちはない。しょうもなくてもいいと思う。死んだ後は、みーんな魂が身体からすっぽ抜けて、円になって、サボテンの鉢植えを眺めているだけなのです、みたいなのでも。