他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

ベールボーイ

昨日は書くのを忘れていた。書いたという事実を完全に忘れ去っているのでなければ。重いスーツケースを引きずり、雨で足元がびしゃびしゃになり、降雨による遅延で駅にしばらく留められ、ちょっと精神がぐんにょりしていたので、日常のルーチンに対して意識が働いていなかった。新幹線の中で本をもくりもくりと読んでいたので、それで文章に対して満足しきっていたところもある。先週くらいに自覚したのだけど、短いメールを書く時であっても、やたら、10分も15分も考え込んでいる事が少なくない。このメールにおいて言いたい事伝えるべき事と、相手との関係性と、メールという媒体と、色々考えて文章と向き合っていると、どうにも捏ね回してしまって、定型文の組み合わせとして対処する事ができない。お世話になっているかどうかはちゃんと考えて書いたり書かなかったりする。こう、メールを取り巻くあれこれに対して敵愾心反骨心を燃やす必要はないと思うのだが、硬直した文体に対してノーを突きつけてみたくなるのである。その必要はかけらくらいしかないのに。また町田康の本を読んでいるが、文章の流れ、偶然そこにある音のリズムから思いつく、書いてもいいけど書いたらチープになる一群の言葉があって、それらを組み込むバランス感覚が大変優れているのである、という事を発見した。筒井康隆では、その部分がしばしば長大になり、そこだけでも独立した強度を持つものだが。爪を切るタイミングと、耳を掃除するタイミングが分からない。私が「友達」という概念を加点方式で捉えているように、それらも多分そうなのだ。ここまで伸びたら、これくらいに見えたら、寝っ転がる時に穴ぽこの中ががさがさ音を立てたら、そういう項目に点数を割り振って、一定以上だと、さあ行為に及んでください、どうぞ、となる。ならないかな。地元の新聞をもさもさ読んだが、日本語の文章としてどうにもぱっとしないというか、よく見ると結構ぐっきり曲がっていて、新聞社の人間がちゃんとした文章のひとつふたつも書けんでどないすんねや、と思った。