他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

ホルマリン抜け

小説を読みながら、小説をおもしろいおもしろくないではなくて、読んでいるという次元にしかない気がした。まだ言語化されていないが、そんな感じがした。久しぶりに英語の小説を読んでいる。これはまだ単語が分かる方だ。知っている単語でも、こんな典雅な組み合わせがあるのか、という意味ではこの訳は高等である。語彙という点では、まあ高校英語修了時点くらいでも読める。つまり、この訳者の能力はとても高いと言えるわけだ。普通の材料で巧みな料理を作る、的なことをしているので。そういえば、翻訳を読む際の言語的な違和感というのか引っかかりというのか、しっくり来ないところがなくて、この訳はもしかして相当いい可能性がある。原語も読めなくはないから、対照してみる暇があったら面白いかもしれない。たまに、自分が持っている欲望の点検をする。これは具体的な形に落とし込むとどういうことがしたいのか、どういう動詞と形容詞と目的語と副詞と観点の対格が必要なのか、よくよく考えるふりをしてみる。毎回ほとんど変わりがなくて、そして下品であけすけで、見ない方がよかったなあ、と思う。下水溝とか排水溝の掃除と同じで、定期的に向き合わないといけなくて、でも目を背けたくなる作業なのである。メリットはほとんどない。毎回相違点を探す方が難しいくらい、少なくて強烈なものが手持ちだからである。近頃は、やけくそみたいに野菜を食っている。何の贖罪なのか。野菜はいっぱい食ってもいいからだろうか。食って食って食い過ぎると身体に悪い野菜ってあるのかしら。過ぎたるは猶及ばざるが如しとは言うが、毎日トマトを食って死ぬということはなかろう。限度がある物事があったりなかったりする、ということか。思考がくるくるする。