他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

マジックテープはそんなにかっこわるいのか

今の時節の渋谷街灯には、ハロウィンに向けたキャンペーンのテナントが掲揚されていて、これが反吐とげっぷのうち任意で選択した方が出るようなシロモノである。書いたやつだけが勝手に満足してるだけではないかと思わず思ってしまう、日本の広告精神の腐った部分だけを取り出したようなそれらが並ぶ。ついでに、ハロウィン当日は、みんなそんな高いところ見てねえだろとも思う。多分目線より上は見ないだろう。見るとしたら写真を撮るために掲げたスマホのカメラを向いているだけだ。そしてそういえば、さらに残念ながら、あの街が一年でも有数に最悪の状態になる日取りに通過しなければならない用があることに気付いてしまったため、週末だけ偶然ワームホールが開いてドラえもんタケコプターを貸してくれないだろうかと切に願う。のび太が思春期に入ると、押し入れとはいえ同室者がいるのはすげえ嫌なのではないかと思うのだが、そこんところどうなのだろう。徳川夢声の本を買っていた。装丁が平野甲賀だったから、そこを見た瞬間、意識下でこれは買いだとなったのかもしれない。私は、部室にあった雑誌か何かで見てから、そこはかとなく平野甲賀(の装丁)が好きだ。それなら絶対買う、でもないし、別に展覧会に行くとか図録を持つとかでもなく、見たら分かる、見たらああいいねと思う、それくらいのささやかな姿勢であり、これに当てるべきはそこはかとなくという副詞かな、というところだ。文字しかない図案、というのが好きだ。私は文字が好きだ。眺めているだけでどこか満足している。だから読んだ本の内容をたちまち忘れるのかもしれない。ダグラス・アダムスのThe Salmon of Doubtであるが、これってもしかしてsermonのもじりなのだろうかと思った。sermo, onisみたいな変化をする、英語だと(教会でする)説教とかの意味だったと記憶しているが、それ、なのではないか。全然違うかもしれないけど。考え事をしながら歩いていて、その考えているのも、何を考えているのだろうと考えているみたいなものだけど、ふらふら歩いて、まだ車に轢かれたことはないので、運がいいのか、ただよろしく注意しているだけなのか、そういえば夏はなぜか赤信号で大通りに踏み出しそうになって、たまたま一緒にいた人が引き止めてくれたが、脳味噌というのか、人間としての機能が突然ぶるりとエラーを吐くような瞬間があって、何回も死んでいるのかも。