猫輩は吾である。
まだ名前しかない。
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皆むっつりすけべであるか、下世話な興味だけは根差して除けないということだろうか。
一応毎日どれくらいの人が見ているのか観察しているのだが、今まで垂れ流してきた中で一番閲覧数が多かったのが次の二つの記事になる。
『弘法は筆下ろしできない』はDMMのオンラインえっちゲームの話で、『小さな子のメロディ』は私がロリコンである理由を考えた話だったが、骨子だけ見れば猥談をしているわけである。
無論、書き手としては、一瞥してそれだけで、ただそれがそれであるだけの理由で切り捨てられないように願っているし、一読の後に思うところをゆっくりと抽出してから態度を決めてほしいのだけれど、エログロナンセンスはいつの時代も強力なコンテンツであって、末端レベルでもきちんと当てはまる不変の真理なのだなあと感じた。
これは完全に個人的な主観の話だが、『弘法は筆下ろしできない』は中々いいタイトルだと思う。助詞を一文字取り換えてしまって『弘法も筆下ろしできない』にすると、たとえ書の名手であっても、もてない奴はもてないという意味になる。
星新一は、諺をパロディして小松左京、筒井康隆らと遊んでいたらしい。
些事だが、『小さな子のメロディ』は『小さな恋のメロディ』のパロディである。そういえば、何号か前のLOのキャッチは「大人でも、小さな恋をする」だった気がする。
大は小を兼ねられない。
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ネーミングはとても大事だ。
それが意味においてなのか、字面においてなのかも大事だ。
西尾維新はアルファベットで記して『NISIOISIN』、回文になるのが肝だ。
NINE INCH NAILSは略称が『NIN』(最後のNは反転してIで左右が対称になる)になって、デザインのときに幾何学的にすっきりしている。
『筋肉少女帯』は、筋肉も少女も帯も知っているからこそ、ミスマッチに起因するインパクトがある。
『おはようございます』という、馴染みがありすぎて意味がほとんど欠け落ちたバンド名なのに、意味が幾重にも絡まった歌詞が音に乗る。
「タイトルだけ知られていて、中身は知られていないものがいっぱいあるのが可哀そうだな」と思ったことがある。
和洋古今問わず、例えば文学の名作は標題だけ知られていて中身がアンノウンのままであることがままある。というか、今はそれがほとんどと言ってしまっても差し支えないのかもしれないけれど。多いものが多過ぎるから。
それに対抗して、タイトルをつけずに作品を発表すれば、最初の一文をタイトル代わりに暗唱してもらえるのではないかと考えたのだ。それはまるで、川端康成の『雪国』が、冒頭のトンネルを抜けて夜の底が白くなるあの一節と互換可能であるように。
名札だけ毟らず、中身も鑑賞してほしいという意図の下に考えたが、『無題』『No Title』としてベルトコンベアで仕分けされるか、知覚できない、分かりやすくないものとして澱の底で藻の服を着て喪に服すかのどちらかになりそうだ。
猫のように、人知れず死んでいる。
名前しかないものはたくさんあるのに。