他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

MSGK

MSGKというアルファベットが印刷されたTシャツを来ている人がいた。ブロック体ではなく、ちょっとデザインがかった字形で、MSGKだった。普通の、30前後の成人男性だと観察した。で。MSGKという四文字を見た瞬間、私は「メスガキ⁉️」と思った。ここで読む目を休めて考えてほしいのだが、と言ったところでここで意思疎通の媒体になっているのは文字なのでそんな事を言うとナンセンスになるから物の喩えとして、MSGKが何かのアクロニムだとすると、ではそれは何の略なのだろうか。果たして、いの一番真っ先に「メスガキ」を想起した私が間違っているのか、正しいのか、そもそもそういう価値尺度を持ち出すのが誤りなのか。頑張って考えてみたが、私が得られた回答は「味噌掛け」のみだったので、あれはメスガキの頭文字だったのだと思う。そして、こんな事をニュータイプ並の速さで思いつくあほんだらはそうそういないと思う。あの人は、胸元に堂々とメスガキを掲げて歩いていたのだろうか。普通に生きていれば、というか、そういう文化圏を観察していなければ、そもそも語彙にメスガキが含まれる事は一生ないだろうし、メスガキという言葉を独自に思いつく人はまずいないだろうから(思いついた誰かがいるから使われているわけだが、オリジネイター以外に、一体何人が同じ結論に辿り着いただろうか?)、見る人が見なければ、あれはありふれた英字Tシャツである。見る人が見たら、そういう文字列だったのだ。英文が書いてあるが、よくよく読むと棒にも箸にもかからない、犬のフンの方がまだマシと言えるような、文でも何でもない生命を持たない文字列だったりするが、もしあのTシャツのデザイン動機がそれで、「適当にアルファベット4文字を並べて、それを歪めてデザイン的にすればいい感じのTシャツができるで!」を発端にああなったのだとしたら、なかなかの偶然である。アルファベットは、30文字ないくらいだから、場合の数はそれの4乗で、同じ文字4連続とか、ANUSとかPISSみたいなちょっとあやしいやつは省いたとて、膨大なのだから、そこからMSGKの並びが得られるというのは、もはや運命的である。どれくらい運命的かと言うと、ステレオタイプでコテコテのメスガキに実際遭遇するくらい運命的だろう。胸元にメスガキを掲げて渋谷を歩いていたあの人は、どういう動機であのTシャツを買ったのだろう。KNNR。

星型に切った大根

性に関する本を読んでいるが、それとは関係なく、ちょっと前に、「見抜きには存在フェチが含まれるのではないか」と思った。私の中には、理由がよく分からないのだが、見抜きについて並々ならぬ感情があり、たまに見抜きという文字について考えていて、ぽろりと溢れた思いつきであった。存在フェチってすごいな、自分ではどうしようもないところに切実さがあるなと思ったが、仮説とも言えない、天ぷらを揚げていてできた天かすが、たまたま岡本太郎の横顔に似て見えたとか、そんな話である。その話で言えば、今日、でかい交差点を渡った時、そこはちょうど、ビルが取り壊されていて空が抜けている正面で、上を見て、「処女膜が付いた膣口みたいな雲があるな!」と思った。雲を見てそんな事を考えるやつがあるか、とは思ったけれど、思いついてしまったものは取り返しがつかないし、そもそもこれは本当にしょうもない、他に仕方のないものである。綺麗な泥団子を作りました、みたいな事で。喩え話を喩え話で換装するとどんどん本質から離れているようになるが、や、象徴界がそも現実界の代替であるから、そこまで遠ざかる操作ではないような。あと、「献」という字がすごい構成をしているなと考えていた。南と、犬がくっついて、どうやったら奉献や貢献や献血や献上に含まれるその字になるのかと。南を向いた犬ころが特別奉仕的であるとか聞いた覚えはないし、音はそこから来ているにしろ、無理矢理分解した要素それぞれの方向や動物の意味はどこかへ行っているものかもしれないし。献杯とかもあるな。帰り道、別段疲れるような何かがあったのではないはずだが、予定していた事を忘れていた。牛乳を買って帰り、ついでに調味料をいくつか買い足そうと考えていたのに、そう考えていた事をたった今しがた思い出した。牛乳は、あとコップ1と半分くらいしかなくて、調味料は、あるにはあるがバリエーションとしてあまり面白くないので幅を保証したいものである。冷凍のでかい肉を適当に買ってきて、冷凍庫に肉のストックを設ける作業も必要である。トマトが残っているし、卵も残っているし、明日の朝は炒り卵とトマトのヴィネガー締みたいなサラダを作ろうか。唐突に思い出したが、母がたまに作ってくれていたメニューのひとつだ。卵が入っているので好きだった。不意に思い出した割には、あのメニューの事が好きだったのかもしれない。次帰省したら、と言ってもいつになるのやらだが、作り方を聞いておこう。

銭湯インビジブル

夏の予定が決まりそうである。というか、だんだん滲み出してきた。私個人のでは全くなくて、しかしまあどうせどこに居ても何もしないのだから、第三者が私の人生に予定を突っ込んでくれるだけありがたいのかもしれぬ。洗濯物を干した。よく晴れていたから、取り込んだらさぞ乾いているだろう。日本の真夏は、タオルを干すとガチガチになる。振り回して人を擦ったら、ちょっと心が傷つきそうな硬度を持つ。畳むと、みしみしと折れるような音がするので、どきっとする。そういうものだ。家の前の、下水なのか排水溝なのかの蓋に、白いテープが貼ってあった。かなり前、いや、少し前か? とりあえず、前の事だが。玄関の門を出たすぐそこ、足の下にあるそれは、良く言えばポイ捨ての名所であり、実に、と言うといささか言い過ぎだが、そこそこ多種多様なものが捨てられていた。ポストに投函されたチラシとか、公共料金の料金通知とか、花とか、米とか。米は実際に捨てられていて、昔書いた記憶があるが、ちょっとやそっと、食べきれなかったおにぎりを押し込んだとかそんなもんではなく、何キロか余った米をずざざざざと流し込んだかのような、並大抵ではここまでの米が遺棄されているのは見ないほどに、小山を成していた。あとはタバコとか、その空き箱とかもあったか。そして、門の脇に生えた、名前も何も分からない、得体の知れない2メートル以上ある植物が花を咲かせていた。この花が、よく分からん花で、黄金伝説でよゐこが作っていたちねりみたいな、ちっちゃくてかすみたいな花びらをぴらぴら落として、家の前が白くなっていた。おそらく、大家さんかその娘かが、これで排水溝が詰まったらいかんと思って目張りをしたか、あるいは、家の前のそこにもりもりと不法遺棄が為されているのを見て、やっぱりこれはけしからんと思って目張りをしたか、そのどちらかだと考えている。私とは違って真面目な人なので、や、私も不真面目ではないが真面目ではない、そういうところに気を遣ったのかもしれない。その結果、玄関を出ると、白いコンセントの穴みたいな図像が、その白白しい白で訴えかけてくるので、気が散ると言えば気が散る。気付かないうちに、その細かい花も散ったのかな。よく見ていないので分からないけれど。好きだったが、最近行っていなかった店が潰れていた。もう大盛り以上が食べられない身体になったっぽいので、適正量で食事として楽しめるかと思ったのだが、その願いは果たせなかった。願いと言うほど、大層なものでもなかったかな。

ケーキとプリンを買った

頭が痛いので大して書かない。ケーキとプリンを買って帰った。そこまで美味くはなかったが、ケーキとプリンを食べたというその事実で充足される心の部分があったのは確かだった。プリンの脇に乗ったメロンを食べた瞬間、「あ!!! メロンだ!!!」と思って、メロンの味を思い出した。もうちょっとプリンを食べたかったが、何かをいっぱい食べたり、いっぱい食べようとするたびに、向田邦子の、何でも、ちょっと物足りないくらいが一番いいのだ、という旨の言葉を思い出し、まあそれもそうかもしれんなと思っている。ラーメンを食うのに、もう並でいいかもしれんと考え始め、身体もそう言っているのも、この言葉のせいなのかもしれない。病は気からだが、健もまた気から来るのかしらね。メスガキの定義について、納得行くものが思いついたので、ちょっとだけ満足した。

ごはんに乗せて、切り開くまでがオムライス

そろそろ流しを掃除しなければならないのだが、細菌というのは勤勉だ。ちょっと掃除しないとすぐにょきにょき姿を見せるし、赤とか黒とか緑とか茶の色があるし、少しでも水が飛ぶとすぐさまそこに居着くし、逞しい。常に開拓民スピリットを持っている。現代では開拓と言っても望むべくもないので、望むとしたら宇宙か地球の内側になるか、彼らに手札の数で負けている気がする。茶のうち一部は、鉄鍋を洗剤と水で浸け置きした時の、錆が残っているのだろうが。茶っ葉を片付けようとして、網を持って、ぺっぺっと水を切ったら、いつもより入れた茶葉が少なかったので、力学に従って中身がバウンドし、流し一面に飛び散った事があった。昨日か一昨日か。今考えると、急須の蓋を閉めたまま、押さえてぺっぺすればいいのだが、あの時は取り出してそれだけでやってしまったんだなあ。不思議な事に。そうやって茶葉の水気を追い出すと、急須の中に、冷えて緑色に濁った、濃い、ちょっととろみがかったお茶が出てきて、まだ飲めるんだろうなと思って、たまに飲んでみるが、風味が飛んでいるし、欠片が網を通過して出てきていて、飲めたものではないと言うのは言い過ぎだが、あまり飲むものではない。濃いお茶が好きであれば、あるいは、と言ったところか。今日は、主体客体を入れ替えるとこういう風になって、とか、その操作で訳しやすくなるんじゃないのかな〜という話をしていた。自分の世界認識というか、認識叙述において、いつの間にやら文法用語が混じってくるようになって、これは日記を読み返せばうっすら察する事ができようが、おそらく去年の秋か冬かくらいから、そういう現象があったはずである。その辺で、象徴界そのものについてなんぞや、と特に考えていた時期があったので。今は、自分の事を、象徴界に入れてもらえない代わりに、その「熱」に灼かれた灰だと思っているが、そのイメージに到るまでのちまちまがあったのだ。本屋で見かける翻訳文学を読む気がしないのはなぜか、について答えを得たのもその時期だったような、これは春頃だったような。柴田元幸だとか、柳瀬尚紀(後者は若干ならざる留保というか、スタンスの好き嫌いがあるが)だとかの少数の例を除くと、原語から日本語に「置き直された」だけであって、姿勢とか座り方とか挙措とか服装とかが、日本語のそれではないというか、訳者がそれにしていないからだろう。借り物の猫であって、我が家の猫になっていないのである。この問題を解決するのは、自分の言語運用能力を涵養して原著で読む、であって、つまり、並大抵の事では妥協を避けて通れない事になる。

時に焼けた背中

晩飯に、生姜ときのこを入れるのを忘れていた。きのこは、特に、入れるのが最後の方なのでよく忘れる。生姜は、冷蔵庫の扉に付いているトレーみたいな部分に移動させて、そのまま忘れていた。冷蔵庫を開けると、自然そのまま視界からフェードアウトしてしまうので、あそこに置いているのはよくない。生姜については、あれは、ごく普通にカビるので、さっさと使ってしまわなければならない。身体にいいようなそうでもないようなイメージがあるが、殺菌作用的には別にそこまでではないとか、なんかそういう感じなのだろうか。生姜をガーゼで絞った汁で拭くと、頭痛に効くんだったか、皮膚の病気に効くんだったか、おばあちゃんの知恵的なやつがあったはずである。そういうのを集めた、『わかもとの知恵』という本が、筒井康隆の著だか編だかで出ていて、高校の図書室で見かけた私は、司書兼国語の先生に、移籍処理をしてもらって、部室に置いたのだったが、一体どんな強い理由があって部室まで持って行きたかったのか、覚えていない。筒井康隆という名前が、それだけでぴかぴかして見えたのか、部活動に役立つような事が書いてあったのか。それくらいしたのに、何が書いてあったのかは装丁以外なーんにも覚えていないのだから仕方がない。右に大きく知恵のキャッチがあって、左から詳細を説明するというような、現今の大して中身がないスカ本と似たようなレイアウトだったと思う。そもそもがわかもと製薬の、ラベルだかパッケージだかに印刷されていたものをひとまとめにした、とのコンセプトだった記憶があるので、限られたスペースに収められたものを解凍するには、紙幅が必要だったという事なのかな。昨日は、2回か3回か連続で下血して、あ、そろそろ消化器科ないし内科に行かないとやべーかなと考えたが、今日はそんな事はなかったので、一旦様子見に戻った。目立った痛みは肛門内外付近にはないので、分かりやすい痔ではないのだろうが、いやむしろ、痛みがないのに血が出る方がまずいのか? お腹に意識を向けてみると、それだけでお腹が痛くなるような気がするので、ここは客観的なあれとかそれが必要である。もう一回、ものすごい下血をしたら病院に直行する。何年か前に大腸カメラをやったが、思い出すだけでしんどいので、できればそこまで行かないと嬉しい。あの体験の記憶は、イメージとしての昏睡レイプみたいなもんだった。ポリープ未満のちょいちょいを切除したくらいだったが、萌芽が成長していたりするのかね。

ポンド・ヤード法

昨日の夜、なすびを食べた。数日前(いつか忘れた)、母と電話をした時、もっと緑色のもの食べなダメよ、と言われたので、スーパーへ買い物に行った時、なるほど、なんかそういう感じの色のやつ、あんまり買わないな、と思って、買ったのがなすびだった。緑……? キャベツでもほうれん草でもブロッコリーでもいいのだけど、一人だと、あの量はなんだか妙に持て余してしまって、茹でてタッパーに置いておく事もするはするが、しばしば忘れる事少なくないので、自然と手足が遠のくというものである。なすびっつったら、夏か秋がシーズンなのだろうと思う。夏野菜、そして、秋のなすのおひたし。それくらいしかイメージがない。油で調理すると、張り型の代わりに使われる事もあるとかないとか言う野菜の雄姿もかくや、しんなりちょんまりして、量は食べやすい。ので、鶏肉をぶつ切りにしたのと炒めて、鶏辣油でしたしたに炒めた。美味かったが、油分多めの調理をすると、血の気がキュッとするような塩を入れなければ味がはっきりしないので、そこが恐ろしいところである。油が美味しいとは、人生で思う事はほとんどないだろうからね。語尾をカタカナで締めたい気持ちというか、パーソナリティが心の隅っこにいて、「困ったナ……」が特にやりたくて仕方がない。仕方がないが、困ったなと言う事がそもそもないので、そこからして困ったナ。ある年代に帰せそうな表記法であるけれど、「〜ちゃん」を丸にCで略記してみたりなんだり、何かしらの記法が、常に、滞流しているものなのやもしれんな。あ、ここで「しれんナ」とかしてもいいのかな。多分、全部が全部カタカナになるわけではなくて、一定のカタに従ってそうなっているのだろうと考えているのだが、実際はどうなんだろうネ。寝る時、布団にぺたっと横になっている時、ノートに、よく分からん事を書き付けなくなったので、精神の昂進状態が一旦落ち着いたものと思われる。よく分からん事というのは、本当に、自分で読み返して自分だけ面白かろうというような、セルフプルサーマル発電のかすであって、よく分からん事である。人に説明するには、これは頭の中にこういうイメージがあって、それを言語的にあれしてあれしてこうなんすわ、となるが、それで納得する人がいれば、仲良くなれるかもしれないなと思うくらいには。じゃがいもをレンチン調理してみたが、何分くらい温めたら適正なのか、いまいち分からん。

パンノニア平原

ベリアルマルチが、出だしからちょっと怪しかったけど、実装された。フリクエの方は、かなりきつかったが、ゴリ押しでクリアした。風は、どうだろう、あんまり相性が(今の所)良くない感じがある。シエテが超越で奥義効果に自身のアビCTを1ターン短縮とか、ニオが超越で奥義スロウでも持ってくれば、もう少し身動きが取れやすそうである。普段は、倒せると分かっている敵を延々としばき倒すだけのゲームになっているので、勝てるかどうか、敗色に傾いた方のバトルをたまにすると、アドレナリン的なやつが出る。何も見ずにやると、腕試しになっていると、思う、のだけど、なっている……なっている……よな。土やら闇やらあたりが相性良さそうだけども、適切な武器を持っていないので、風でなんとかこねまわす事になりそう。想像したよりも、だいぶめんどくさいマルチにしてきたなとは思ったが。めっちゃくちゃ雨が降っていた。朝くらい。雨が降る音で、早朝に一回目が覚めた。びちゃびちゃびちゃびちゃ、バケツを45度あたりに傾けて、渾々と水が湧き出し続けているかのような大雨だった。最悪だった。そっからもう一回意識を落として、でもまだ降っていた。結局、昼過ぎだかまで降っていたのではなかったか。窓の外に見える植栽が、雨を浴びてか、より一層繁々とこんもりし、でもやっぱり、てっぺんの方に付いている花らしき部分は紫陽花とは似ても似つかず、一体なんなんだろうな、あのプラントは。紫陽花の密度を10分の1くらいにして、その精力を全て葉っぱに回したかのような、言わば「むちむち」した低木灌木なのだが。頭の中ではbushあたりで考えているけれど、低木と灌木に違いはあるのか、そもそもそれらを指すにあたってこの英単語で合っているのか、など、いらない事を考えた。頭の中でどういう優先順位順序で登録されているのか、Unschuld、innocence、無罪の順番で思い出す。独英日である。なんでだ。私のドイツ語の語彙は鼻くそみたいなもんなので、よりによってなんでそんな、標準語彙の第三スタンダードあたりにいそうなやつを覚えたのか。そういえば、Schadenfreudeを日本語にすると、「メシウマ」になると、先日誰かと話した。メシウマ、という俗語と、いかちいドイツ語が並ぶのはなんだか違和感があったが、Schadenfreudeだって、よく考えればまんまな合成語なわけで、音に騙されているのかもしれない。

受領書の受領書の受領書の……

ぎらぎらしていた。まだ剥き出しではないけれど、太陽が元気だった。夕方くらいから、雷が鳴り始めて、夜には雨の幕が降りてしまったにしても、暑かったには暑かった。帰るのが遅くなっていたら、洗濯物がぬれせんべいになっていたところである。自分の身体に対する感覚が、なおのこと希薄になる期間に入ったらしく、今回は適切な摂食量がよく分からなくなっている。昨日の夜食ったまぜそばは、並盛りにしたのにいやに多かった。や、あれは、あんまり行かない店だったので並盛りが実はそこそこあったのかもしれないし、小ライスが付いていたので一層そうだったのかもしれない。帰りに、つけ麺の並が400gの店を見つけて慄いたばかりである。小ラーメンが普通のラーメン屋を凌駕する事だってあるのだ。一日三食だったり、二食だったり、その内実も日によってまちまちであるからして、状態を定点観測しているとは言えない感じになっているのかな。身体感覚とはそもなんぞやと思われてきたが、考えたら終わらなくなりそうなのでやめておこう。電車の中で読む本がなくなりそうだったので、また追加で買ってきた。正直、現在の私宅における書籍保存状況からすると、本を買う前に本棚を買った方が絶対に、ぜえったいにいいのだが、おそらく頭の中で、本棚を買う金で本が買えるじゃん!!! という愚かな変換が行われているため、そうはならない。今見ないでいつ見るねんと思ったのでちらっとスチール本棚を見てみたが、想像以上にいい値段する。これいいな〜と思ったら2万円くらいした。あと、欲しいところに置くにはちょっとでかいかもしれない。木質の本棚だと棚板がたわむのは確かにそうなので、スチールもいいなとは思うが、質が上がると値段が上がるのはやはり世界共通の理であったか。また、よく分からん本ばかり買ってきた。最近、ついに気が付いたのだが、新刊コーナーを見たところでどうせそこからは買わないのだから、見なくてもいいんじゃないかと思えてきた。あそこは、目が滑る。今日は、三島由紀夫の、手紙の書き方指南みたいなやつと、野坂昭如火垂るの墓アメリカひじき、松沢呉一のルポ2冊。新潮文庫の棚に挿さっていた野坂昭如の本は、前回はエロ事師たちだけだったので、私が買った事で補充されたものと思われる。ワクワクしながら読んでみたが、なんだかしっくり来なかった。エロ事師たちが、あまりにも、私のある部分の記述に近かったからもしれない。全てが合うわけではないのだな。

女の気配

陸橋の高架、高架と言うにはいささか天井が低過ぎるが、トンネルとして空いた穴っぽこが横断通路になっていて、そこの状況が印象深い。ほぼ毎日、エロチラシが増えている。私が観察したのは最初の1〜3枚の段階で、「おっ、ピンクチラシがある。これを蒐集している人がいるらしいな」と思って通り過ぎ、昨日もあったけどなんか増えてるね、とうっすら勘付き始めた。数日置いてそこをまた通ったのだが、7枚だか8枚だか、トランプの手札を投げ捨てたようにぐちゃりとしていて、やっぱり、日数に正比例して、数が増えている。ざっと見た感じ、ピンサロとかデリヘルのそれらしい。何枚かがまとめて落ちていて、そしてそれが現象として一回きりなのであれば、誰かが捨てたか落としたか、ポスティングがめんどくさくなってポイしたのかなと思うが、こうも定常的に観察できる進展があると、どうにもこれは人為的なものだと考えたくなる。もしかすると、「誰かが捨てているから俺も捨てよう」という偶然の連鎖なのかもしれないけれど、それが日数と歩を合わせるのは、よっぽどの確率か、それとも私の住処がよっぽどのスケベを抱えているかである。普通に生きていると、ピンクチラシを手にする事などない。あそこは不法投棄の名所であるから(最近は落ち着いたかと思ったら、クッションとラグなどがこんもりと捨てられていてげんなりした)、人に見向きもされない、日陰の性質を持ったものを引き寄せる場の引力があるのかもしれない。それを記憶に留めて記録に留める私もアレだけれど。いつか、あの通路が床から壁から天井まで、エロチラシでびっしり埋まるのか、風雨や清掃によりまとまった数でなくなってしまうのか。彼らの行く末を見守りたい。あの辺りは、ゴミのポイ捨ても非常に、非常に多い、局所的不衛生スポットなので、何かパワーがあるのだろう。この世の水面上に出ない方のそれらのよすがとなるような何かが。今日はちょうど洗濯物を干すサイクルの日だったのだが、一日、雨が降るんだか降らないんだかはっきりしない、むにゃむにゃした調子で、部屋干しをするとただでさえ不快になってきた室内温度湿度が快適指数を爆下げするので、やめた。明日の天気もあまり振るわなそうだが、タオルは保つかしら。そういえば、部屋の片付けをした時、在庫がないと思ってノートのストックを買い溜めしたのに、まだあった。ノートは無くなる時は無くなるが、別にその速度は迅速ではないので、向こう1年だか2年くらい、困る事がなくなってしまったらしい。

季節を冠する王

午前中からむしむししていて、やれんなと思った。日向を歩いていて、存在自体が干上がるような、げんなりする感じがないだけ、まだマシなのかもしれない。春キャベツは、甘いがちっこくて、同じ値段なのに損した気分になる、という話を聞いていたけど、今日見たキャベツは、人の頭部を殴るのにちょうどいい石みたいなサイズで、中身がみっしりしていて、おぉ、これぞキャベツ、それぞキャベツ(これに「ぞ」は付くが、それに「ぞ」は付くのかな。指示代名詞+助詞という構造は同じだけど)の様相を呈していた。春キャベツは耳にした事があるけれど、夏キャベツ秋キャベツ冬キャベツは聞いた事がなくて、もしかすると世の中にはあるのかもしれないが私は聞いた事がない、少なくとも、春キャベツでなくなったという事は、春の次のシーズンに移ったという事になるだろう。日本には四季があると言うが、四季のそれぞれの境界、あわい(「間」で「あわい」と読める事を今タイプして初めて知った)に対して、固有名詞的なそれがあるわけではないので、もう春は終わったな、そろそろ夏かな、夏の足音が聞こえてくるなという気配だけでそこを表現し、もう夏だなと言って忘れるわけだ。暦がそうなっているだけで、どこかの会社のカレンダーでは、夏・前Q1期、夏・後Q2期みたいな区分を設けているところもあるのかもしれない。しかし、それだと、夏・前Q1期という無骨で何の面白みもない言葉が季語になりうるわけで、これが詠み込まれた俳句なり何なりに風情を感じるのは、よほど鈍感か、よほど想像力が自壊するほど逞しくなければ難しかろうて。すると、やっぱり、季節は四季ぐらい、適当でふわっとした切り分け方でいいのかもしれないな。夏と秋の中間点をこの辺としたら、まあだいたいこの辺です、この辺。春っていうヤマを越えると、次の夏っていう峠が見えてきますよね、道が蛇行してるとたまに。こういう、もにょっとした感じの。早めに身辺を片付けてしまったので、夕方にしてやりたい事がなくなってしまった。やらなければならない事はあるが、まあ、あれは明日でよかろう。冷蔵庫の中でじっとしているじゃがいもの身の振り方を考えてやるのがよいか。じゃがいもってどうすればいいんだろうか。一人暮らしを始めて、本当に一人っきりになった最初の日に作った料理は、今でも覚えている。じゃがいもを炒めれば食えるだろうと思って、ごんぶとに切ったものをびちゃびちゃの油で炒めて、火加減がよく分からず表面が焦げてどうしようもなくなった、フライドポテトでも揚げ芋でもない何か。じょりっとした、でんぷん質の味だった。

デュラハンにキスを迫られたら

6章(前半)を読み終わった。おもしれ〜〜〜。メインクエスト進めるの久しぶりだったから、こんな長かったっけ? って思ったけど、読み進めるのがもったいね〜〜〜。おもしれ〜〜〜。これで3割? つまり今回の二倍以上、7月に読めるって事? うれし〜〜〜。という感想でした。はちゃめちゃに面白いですね。やはりシナリオを読むゲームなんですね。楽しみだな。朝飯に何を食ったか忘れて、空中に視線を泳がせながら思い出した。鶏モモ肉を、酒とかみりんとか、適当な調味料で漬けて湯煎調理した(復路が破けないように調理できたのだが、鍋から持ち上げる時に袋の裾が裂けて内容汁がぴょっと出た)ものの、最後の一切れというか一塊だった。ちょっと脂っこくてしつこかったので、湯煎でしばき回す前に、今度からは皮の余分な脂を除去したり、一瞬だけ下茹でみたいな事をしてもいいのかもな、という教訓を得た。あとは、単純にニンニクを入れすぎたかもしれない。モモ肉3枚に対して、7かけ或いは8かけくらい入れた気がする。いっぱい作るんだからいっぱい入れればいいじゃない、という発想だったが、あまりにお粗末だったようだ。冷やして、皮から染み出したコラーゲンによって漬け汁がとぅるんとぅるんになり、ぷりんぷりんになり、まとわりつくのを剥がしたとは言え、ちまちまとひっついていて、それが上澄みに層を成した油と手を繋いでラインダンスを踊るのだから、しつこいのは何もニンニクだけの罪ではなかったやもしれぬ。人間、幾度も失敗するものであり、そのたびに、耳垢ずつでも、学びを積み重ねていければいいですね。湯煎して、脇が溶けて破れない素敵ジッパーバッグはないのかしら。そもそもジッパーバッグはそういう用途を想定されていないのか。基本は保管用アイテムなのでね。流し台の下でしばらく保存されていたじゃがいもを、そろそろ腐るなり痛むなり変身するなり、したらいやだなあと思って、皮を剥いて、水に晒すところまではした。晩飯を作り始めてから、あっ、じゃがいも君の事をすっかり忘れていたというか、皮剥きがピーラー無しでは面倒な事この上ないので、できればスルーして暮らしていきたいなと考えていたのを思い出し、今やらねばいつやる、ええいままよと、スパゲッティを茹でながら、じゃがいもの皮を剥いでいた。とりあえずタッパに入れて冷蔵庫に保管したが、あれで何を作ろうかねえ。ポテトサラダとか、しばらく食べてないな。

襟元正しいバーレスク

暑い。暑いという字は、何も考えずに分解すると、「日」と「者」になる。者をもっとばらして、「土」「ノ」「日」になる。2つの日で、土とノを挟んでいるわけである。暑さで頭の中が蒸発した状態でこんな事を考えているので、先の事なんかちっとも考えていないのだが(「ちっとも」という副詞は久しぶりに使った気がする)、もう少し考えてみると得るところがあるかもしれないので続けてみる。形態的に最小単位にバラすと、元の意味と見比べてみて、なにがなんやら分からなくなったが、これは多分象形文字なのだろう。や、だとしても、日が2つある理由が分からないが。土は、地面か? ノはなんだ。太陽光線を象徴させて、一本線があるのかな。熱気で陽炎がダンシングして、太陽も2つに見えるくらい、そんな気温、それが暑いという字の素性だったりはしないだろうが、自分でこねくり回して暇をつぶす事はできる。暇を暇で潰しているのだから、赤の絵の具で赤の絵の具を溶いているようなもんだ。絵の具の質感としては、黒とかメディウムが好きだったから、頭の中の景色の彩度は低いんだろうな。バラバラの事を並べているな。解体してばらばらになった牛のパーツを、目隠しして福笑いのように並べているようだ。福笑いは、紙から切り出したり、厚紙にプリントしたようなやつしか見た事なかったが、猟奇的な福笑いもできなくはないわけだな。正月あたりの遊びと言えば、羽根つきとか福笑いとかだが、あれらの遊びというのは、正月に始まり、いつまでやってもいいものなのだろう。やってもいいもの、あるいは、レクリエーションとしてのハイシーズンはいつまでなのだろうとも言える。夏場や秋にやっているとなんだかちぐはぐな感じがする。春は、屋外遊びには適した外気温だから、条件としては一番整っている気もする。何を考えているんだろうな。思考が飛び飛びだ。そろそろ冷房が起動する施設も増えてきて、空調の効いたところから、ねっちょりした空気がまとわりつく外に出て行った時の、あのげんなりする感じ、また思い出した。皿を洗ったりするついでに長袖を捲り上げて、そのまま生活しているが、衣替えを本格的に検討し実行に移すまでのシークエンスを組まなければならない。暑いもん。問題は、秋口の自分が、一体どこに半袖を収納したかであり、それが分からないからやろうという気も怒らんのだな。層の上澄みにあった、ウォーホルのバナナが印刷されたユニクロのTシャツ、何年着ているのやら。

無形

野村萬斎狂言サイボーグ』を読んだ。本屋で見た時から、タイトルが最高だなと思っていたが、中身も面白かった。表紙もよい。本文中に、内容と関連する野村萬斎自身の、写真というよりはポートレートがカラーなりグレースケールで挟まっていて、そこも新鮮だった。彼の事は、にほんごであそぼの「ややこしや」しか知らなかったと言っても言い過ぎではないくらいだったが、この一冊で、めりめりと情報が広がった。東京藝大出身なのも知らなかったし、英国に一年間留学しているのも知らなかったし、狂言以外にも幅広い表現媒体に積極的な事も知らなかった。伝統芸能を、その領域の中だけで埃を被らせるのではなくて、開拓と挑戦を繰り広げているところなど、鈴木忠志を思い出すなと思ったら鈴木忠志とも関係があって、方向が似ている人は、ねじれの位置にはないのだから、いつかどこかで交わるのだと知った。平滑で、素直な文章で、たまに英語そのまんまが出てきたり、海外の芸能についても少なからぬ見聞があって、立派な人だと思った。これを勧めると面白そうだな、という人が二人ほど思いついたので、興味を示すかどうかは別にして、話だけでもしてみようか。能については、人生でほんの一瞬だけぶつかった事があったので、ちらと勉強してみようかと考えた事があるが、狂言はなかった。大学のサークル勧誘で話を聞いた記憶はあるが、それだけである。これを読むと、コントに近しいもの、もっと言えば、小林賢太郎的なものが(あるいはその逆かもしれないけれど)、狂言にはありそうである。『茸』とか、まさにコント的な筋書きであって、面白そうだ。人生の水路が、ひとつ開いたのかもしれない。あおむしに着想を得たらしい風刺画(風刺画? 挿絵? 「風刺画」というのが既に色付きの言葉であってアンフェアだから、挿絵と呼んでおく)が、版元からうんならかんなら、という報があった。何かしら、ネットニュース的なものに関しては、反応するのに時間を置くべきだと考えているので、一日、もにょもにょ考えていて、夕方くらいにひとつの答えを得た。はらぺこあおむしという一冊に対して、「健全」な読み方のみを強制する姿勢は間違っている。解釈は、あまりにも埒外のものは別にして、可能性に対して開かれているべきである。貪欲という一瞬間は、たしかにあの絵本の中にあるし、それが腹痛という象徴的懲罰によって、きれいな蝶への変身を許された結末とは別である。利を貪って、一瞬手が後ろに回ったけれど、最後は華麗に天下りできました、みたいな、アレゴリカルな読み方も否定できない。版元があんな事、やってよかったのかなと思っている。子供と絵本に、潔癖を押し付けすぎではないか。