他愛がない

日記が置いてあります。タイトルと中身はあまり関係ありません。短編小説も書いてます(https://kakuyomu.jp/users/mezounagi/works)。 twitter:@mezounagi mail:mezounagi★outlook.jp(★→@)

ぽこ卵

何か韓国料理のレシピをペラペラ見たのだが、ひとつ、名前をどうしても覚えられないものがあった。トスカーナかまりもっこりとかマリメッコとかつるとんたんとか、これらを混ぜて総数+2で割ってエッセンシャルなエッセンスを足した名前だったと思う。その存在のひらめきだけはちらつくのだが、名前ずばりが呆れるほど思い出せない。興味がないから覚えられない、ではなく、思考コースのどこにも引っかかる出っ張りがないから素通りしてしまう、という覚えられなさなのだ。他にもこういう項目は世界に存在しているのだが、それらはやっぱり覚えられないので、何がそれだったかも忘れている。作ってみてから気付いたが、私がよく手癖で作っているうまいスープと大体組成が一緒だった。生姜にんにくとうがらし昆布を入れて煮るだけのやつ。後半ふたつは入ってなかった。世の中のおおよそにはすでに名前がついていて、だから、開高健が数々の感覚と経験に、唸るしかない、見事なペンの一走りで名前を与えるのが眩しいほど羨ましい。パジャマを冬用に変えた。夏が舞台袖にハケたと思ったら、冬が急転直下で登場した。まあ寒い。寒いのは足し算でどうにかなるやんけとか言っていたけれども、寒いのはただただ嫌だ。ちょうどいい期間というのがない。日本に四季があるとの定式は、そろそろ実状に合わせて修訂した方がいいのではないだろうか。

魚群探知機に映るでっかい丸

3ヶ月くらいそのものの姿を見ていないから忘れていたが、愛用の消しゴムの名前はRadarだった。それはそれとしてRasereという消しゴムもあった。パチモン商売な気もする。ちっちゃい文具店にはなかったので、じゃあそれなりの文具店に行けばあるのでは、いやないと文具店ではなかろうよくらいの気持ちで行ったところにはあった。あったがその欲望は中折れ的達成を伴うものだった。あるにはあったが、あの持ちやすくて気持ちの良い矩形の、100円いくかいかないかの価格サイズがなく、細っちょいちっこいのと、それの倍以上の値段がする太陽に当たったら色が変わるというクソどうでもいい仕様のしかなかった。そもそも消しゴムコーナー自体が狭く、まああれで濡れ手に粟とはいくまい薄利な商品だろうから力を割かない気持ちも理解できるが、うぉぉん、Radar、と思った。SEEDどうしたのだ、と思った。ちっちゃいのとクリアタイプ(透けているだけ、ちっちゃいのも在庫が一個しかなかったので仕方なく)ひとつずつを買った。200円もしなくて、こんなしょうもない会計に金銭のやり取りとレシートの発行が発生して良いのだろうか、少額の買い物では都度思うものだ。めちゃくちゃ頭が痛い。痛いというか振る舞いを間違えた。雨がべちょべちょしている。

提要

今日は少し元気だった。午前中に揚げた、午後6時のコロッケくらい元気だった。妙ちきりんな暑さが漂っていて、10月のカレンダーは半分くらい8月や9月に侵食されているのではないかと思える。昨日買ったThe Salmon of Doubtをぺらりと読んでみたが、今まで読んだダグラス・アダムスの小説の文体は、(多分)そのまま本人に染み付いている本音の文体だった。日本語訳でも、ひねた文体、あるいは修飾、エトセトラと思ったものだけど、オリジナルがそうなのだから理の理に違いない。いつもはにんにくも入れて作っていたスープを、今日はちょうど切らしていたので(切らしていた時につける副詞は概して「ちょうど」であり、「やや」とか「わずかに」とかはつけないが、ちょうどをつけられるのは最後のストックを使い切った時、つまり前回の料理ではないかと考えるのだがどうか)、生姜ととうがらしだけでやってみたら、にんにくを入れるよりも風味が透けていて飲みやすかった。とにかく盲滅法にんにくを放り込むのが習い性となっていたが、適材適所という言葉の意味を今一度噛み締めるものである。昨日早めに寝たら、結局寝つきが悪かった。牛乳がなくなった。鰹節はいっぱいある。

サーモン紙幣

頭の中が爆発している。音と実体なくして。工場の地図記号みたいな。発電所だったかの地図記号のプリントTシャツを来ている人がいて、いいセンスしとるなと思ったのはいつだったか。夜も寝られないし、意識がぶりぶりして、家出、蒸発、逐電、もぐり、一体どこへ行ったのやら、晩飯が冷えていくつの晩を過ごしたか。最寄りの文房具屋に行ったらRaserは売っていなかった。私はあれを使うことにしている。だから何も買えなかった。ないのか。あれはないのか。近所の自販機に、ただでさえ置いていないなっちゃんのただでさえ置いていないりんご味、ちっちゃいやつだが、それにしても並んでいて、あぁ、私は君が好きだ、好き好き、と思いながら一回も買ったことはない。本屋の洋書コーナー、洋書とあるからもしかして銀河ヒッチハイクガイドシリーズの原書でも置いてあったりするかな、しないかな、もじもじしてフィクションの棚を眺めてみたら、ダグラス・アダムスなんていの一番にあって、最初のだけではあるがあった。でも版面が気に入らなかったので買わなかった。版面で選り好みしているところがある。間違いなくある。洋書は判型にはじまり数々の点がばらばらで、それで言うなら講談社文庫は文字の大きさがもう少し小さくて版面がぎゅっとしていたらいいのになと思う。前、でっかくて読みやすいのがいいのだ、と出版社かどこかの人が言っていたけど、私が一番かっこよい、ビッとしてるなと惚れ惚れするのは、かっちりした欧文組とか辞書とか、ああいうのなのだ。密度と粒、あれがいっちゃんかっこよろしわ。ネ、だから棚に戻して、でも横にあった、ダグラス・アダムスの名前が印刷された本は買った。未収録短編だか、エッセイだかみたいなのらしい。タイトルはThe Salmon of Doubtであって、これが一体どういう意味なのか、表紙のレジスターとシャケを眺めているだけではさっぱり分からない。ちんとぷんがかんしたりぷんしたりしている。ちんぷんかんぷんとは、学校の始業ベルに似ていると今思った。4文字で、偶数音節がんであれば全てそうだと言えるかもしれないが。きんとんびんせんとかでもいいような気がしたが、これは統一感、しっくりくる感じ、そういうのに欠けている。ちんぷんかんぷんは言葉としてこなれているからだろうか。洋書を読むのは苦手だ。読み解くのと意味を楽しむのは別個の作業であって、グラタンを食べながら背泳ぎするようなもんなのだ。だから外国語学習は困難なのだ。いつか深海でアップルパイを食べられるようになるのかしら。

あんのー

マックシェイクの安納芋味を飲んだ。あんまり美味しくなかった時の保険としてチョコレート味も買っておいた。安納芋味は美味しかった。近所のパン屋で売っているさつまいもパン、これの小さなダイス型に切ったさつまいもを噛み潰したその瞬間が常に訪れていた。あと、めちゃくちゃ甘い。飲みながら踊り出しそうなくらい甘い。べっちゃあ、としている。総じてさつまいもを食っている瞬間の最たる高まりがコンスタントに楽しめるそれであり、その安定した出力の高さゆえにくどいと感じる向きも否定できない。飲むならSサイズがちょうど飽きないくらいかもしれない。言葉が足りない。

百足の千日手

精神のある部分は音のない絶叫を絶やさず、またある部分は、線路のために盛り上げられた土手の横腹から出ている排水パイプの真下で腐って死んでいた名も知らぬ魚のようだった。なんだか覚えているあれは、いつのものだったか考えた。去年だか一昨年だかの春頃、人の手伝いで埼玉あたりに行った時のそれだ。ちいさな家庭農園がへばりついている景色の中で、突然死体がぽかりと現れたので、頭に刻まれている。だからまとまった思考がない。ポテチを粉々に砕いて、無策に力任せに開けた後みたいだ。やっぱり、私の発作は秋冬に出るのだろうか。そうなのだろうか。それならやっぱり私は冬はきらいだ。

存在がかく汗

文庫版の伝染るんです。を5巻まで読んだ。やることがなくて白を目の前にして呆けていたので、夜寝られなくて最後を読んだ。Golden Luckyは意味が分からないけど意味が分かる漫画だったが、伝染るんです。は意味が分かる。共感しがたい(しがたいというか意識下に構築された倫理的障壁と喧嘩している)のはどちらも似ている。あのかわうそだけやたら知っていたのだが、あれをそもそもかわうそと呼んでいいのかどうか不安になる。顔がやたら人間くさい。なんなら一番驚いたのは、伝染るんです。も4コマ漫画だったことかもしれない。3、4ページの短い漫画だと思っていた。なぜか、勝手に。かわうそが出てくるコマだけ妙な変形がしてあったりする。……かわうそ? ここ数日、意識が分裂している。使い終わってなげてある単四電池みたいだ。この前、甜麺醤の蓋が、蓋のでっぱりが瓶の構造と全く噛み合ってないためにくりくり回す正攻法では開けられず、蓋をドライバーでガンガン殴って変形させた挙句開封したのを思い出しあt。中国直輸入の調味料だとよくある。なんでや。殴るか、ドライバーでこじ開けるしかない。シーツを洗った。洗ってもハンドクリームの怨念みたいな黄色いシミはずっと取れない。というか、シーツをひっぱがすたびに思うけれど、こんな汚い布団の上にシーツ一枚隔てて寝るくらいなら、新しい布団を買った方がいいと思う。めんどくさいのでしないんだろうけど。

ねんがっぴ

頭の中で、音のしないクラクションを爆裂に鳴らして猛スピードでパレード車が走り去っていくような日だった。無臭タイプの洗剤を水に溶かしたような。言葉が、頭の中で急速に後退していった。多分、向こうのほうでキャンプファイヤーでもしているのだと思う。キャンプファイヤーなど、最後にしたのはいつだ。中学の時に野外活動があったはずで、そこでしたと思うのだが、それについての記憶が微塵も残っていない。毎年年始に初詣に行く神社は、参道脇の広場ででっかい焚き火をしていて、キャンプファイヤーをでっかい焚き火だと捉えるとあれがそうである。しかし、キャンプファイヤーはどこからどこまでキャンプファイヤーなのだろうか。近年ソロキャンプが流行っているが(流行っているというか今までやっていた人がキャンプブームに伴って認知されただけかもしれないけれど)、ひとりぽつねんと焚いている火は、字義的に言えばキャンプファイヤーになりそうだが、大人数で囲むでっかい篝火でなければキャンプファイヤーではないのだろうか。まだキャンプファイヤーの周りで歌われたことがない曲ってどれくらいあるのかしら。千、二千で効くのかしら。部屋の端にすぐ髪の毛が吹き溜まって汚くなる。汚という漢字が与える汚さは、さんずいから来るのか、右側のよく知らない形から、あるいは総体が感じさせるものなのか。

眉間皺寄り合い

Qooはオレンジよりもりんごの方がおいしいという話をした。色々長い話を諸々したのだが、体力が保たなくてしばらくぶっ倒れた結果忘れた。後で思い出すと思う。頭が痛い。痛いというか、白くほろほろと崩れている感じがある。新しい眼鏡が全然フィットしないので、早急におニューのメインを誂えねばならない。プラのフレームは変形がないから安心かと思ったが、そもそもデフォルトで歪んでいて、なんやねんおまんと言いたいところだし、肌に合わないのか結構痛い。細めのメタルフレームの方がいいのかしらね。そういえば夜ご飯をまだ食べてないのでいい感じに、こう、しよう。

宇宙干物祭り

明日から再び天気が悪いと聞く。シーツを洗いたくて仕方がないわけではないがあるかないかで言えばあるのでできるだけぺっかぺかに晴れていてほしいところなのだが、言ってものを聞かせられる相手とそうでない相手がいるので、武器を引っ込めるべきところは引っ込めておく。そもこれは武器なのか、とも思う。買いに行った目当ての本がなかったので、近くにあった伝染るんですを買ってきてしまった。多分まだ読んだことはない。何かに一部引かれているのを目にしたことはあっても、総体として読んだことはなかったはずである。昨日書いてないような気がするが、町田康『記憶の盆をどり』に入っている「付喪神」という短編がめちゃくちゃよかった。もう、めちゃくちゃである。調理前のやきそば原料と、できあがったやきそばを並べた時の差異、それくらいめちゃくちゃよかった。何がそんなに響いたのかは、まだ水気が飛ぶのを待っている最中だ。少し暑い日で、汗がほんのり粘っこい。存在感も、ゆっくり蒸発している。水が飛ぶと、白っぽい粉っぽい跡が残る。真水だとあれはないのだろうか。

十年分の失明

眼鏡を布団の下敷きにしてしまい、殉職した。蔓がひんまがり、レンズが弾け飛んだ。外れたレンズをはめようと、フレームを押し付けてネジを締めんと頑張ったものの、月日と惰性でくっついていたに過ぎなかったようなもんらしく、箸にも棒にもひっかからなかった。フレームの金属から滲み出してきたと思しき緑青みたいなもんもぽろぽろ落ちた。果たして幾歳だったか数えてみたかったが、いつ買ったのか忘れたくらいの眼鏡であった。ややもすると10年くらい使っていたのではないか。常に着けていたため、それほどの年月の眼を私は失ったと言えるわけである。よくもその間、今日みたいなしょうもないミスをしなかったものだ。こういうことがあると困る、視力がダメダメなので補助器具がないと日常動作さえままならない、備えとして、これも4年とかそこら前に誂えたスペアを引っ張り出してきた。もしも用&遠くを見る必要が生じた時用(結局4年くらいそんな必要はなかったわけなのだが)に作ったものだから、少し度がきついものになっていて、視界の違和感がすごい。普段は99%くらい手元しか見ないのだから、遠くが見えなくても全然問題なくて、すっとぼけた度でむしろよかったのだ。視界が上下逆になる眼鏡を帯びて生活すると、一週間くらいで脳味噌が信号入力を変更して正常な向きに見えるよう適合するらしいから、この居心地の悪さもそのうちどうにかなるのだろう、多分。それはそれとして、予備がメインになってしまったから、次の予備を一応ストックしておく必要がある。眼鏡屋にはいくつか心当たりがあるのだが、度入りを一万円前後で作れるのだろうか。インフラ中のインフラなので、ここで出し惜しんでも仕方がないっちゃ仕方がないけれど。眼鏡どうしたんですか、と聞かれて説明するのが今から一番めんどくさいかもしれない。眼鏡って何ごみなんだ?

代わりの男の代わり

電車の中で読む本、ないかな、何か、ドラえもんがあれこれ放り出す気持ちの三分の一くらいで、ぐっちゃぐちゃになって久しい机横の空間(指摘する適当な呼称がない)を探して、ああ、そういえば、カバーを引っぺがしたままになっていた、ダーク・ジェントリー全体論的法律事務所があった。いつ読んでもへんてこな本である。どうにも、こう、へんだ。部分的に取り上げて、例えばこう、という話ではなく、縷々一貫としてへんなのである。そのくせ妙に映画的だ。一年に一回映画を観るか観ないかの人間が言ってもしょうがないが。入力ソースが動いている画というのがいまだにしっくり来ないからなのだが、私はアークナイツのアニメを観るかどうか、一年ぐらいぐずぐずするんちゃうかと思っている。右手小指のささくれが日中は気になっていたのに、気がついたらいなくなっていた。私の心をざわめかせるだけざわめかして、すっと消えてしまった。じっとりねぶたい。冷凍のフライドチキンは、加熱するまでフライドチキンではない気がするが、じゃあそれまでは何として存在するのだろうか。

なっみょっほっれっけっきょっ

寝起きに寝ぼけて(同語反復に聞こえたが別にそうではなかった)左手を枕側の壁にthrustしてしまい、薬指を突き指した。突き指というか、指の先っちょが壁にがんと当たり、浮爪と内出血の中間みたいな状態になった。理性によるコントロールがない状況での力加減と体の動きだったから、まだむにゃむにゃしている意識がびくっと覚醒し、その反動で痛みから逃げるように眠気が突沸し、結構寝ていた。一日中だらだらと雨が降り続き、ぱっとしなかった。べちょっとしてだらっとして、じくじくしている。湿気のせいで暑さとうっとうしさが分かち難く共存していて、空調をつけるほどではないにしてもつけないと暑い、どっちかにしてちょうだい。見えるところに置いてあっても存在をすぐ忘れるので、開けないと見えない場所にあるものはたちまち忘却の彼方、粘土の中に練り込められる。冷凍庫の中に冷凍からあげの袋があって、そういや買ったなと思い出した。別においしくないのだが。からあげを食っているという事実のためのからあげ、マックのチキンナゲットみたいなものだ。ずっと思考がからからしていて、ハムスター不在の回し車がぷいんぷいんしていた。からんからんぷいんぷいん。ちちんぷいぷいみたいだが。ちちんぷいぷいも、もう何年も言っていない、気がする。言わなくてもいいなら言いたくなる。でも別に必要な場面がないから言わなくなったわけだ。でも寝起きに突いた左手薬指がちょっとだけ痛いので、唱えておこうかな。ちちんぷいぷい、いたいのいたいのとんでけ。

マザーグースカピー

台風がほよほよと立ち消えになり、これは随分と気持ちの良い洗濯日和、あるいは秋風に吹かれるすんやりとした日々、ようこそようこそと思っていたのに、今度は別の台風が生を受けたせいというかおかげというか、だらだらじとじととした雨が途切れなく降っていて、これは言うなればそう、よだれのような雨である。弟の誕生日プレゼントをどうするか電話で相談し、私が決めることになった。シェフの気まぐれサラダみたいなもんだ、と言ったら納得された。私に決定権を委ねられるほど、想像力が育ったのか、単純に私が変なもん送ってこないだろうという安心なのか。プレゼントに対して具体的な欲求が形を取らないこともあるようになった時、人は成長しているのかもしれない。してないかもしれないが。日が落ちるのが早くなっている。寒いのもいやだが、冬のじとっとした暗さもあまり好きではない。裏地に銀の折り紙でも張り込めばいいのに。銀幕とか梨園とか花柳界とか、これはeuphemismになるのか。おならについて、あら失礼、肛門を爽やかな春風が通り抜けていったようですね、とか言わない。言わなくていいからだろう。変な眠りの日だったから、頭がまだぽーっとする。雨の日ははっきり調子が悪いから、低気圧のせいにしておこう。

蛙が飛び込んだ池の表面より跳ね上がった水滴は宇宙に達して蒸発した

武田砂鉄『今日拾った言葉たち』を読んだ。非常にちまちました作業である。なんだかするりと横を通り過ぎることができなかった言葉に、都度立ち止まって考え込んでいるのだから、ちまちましている割に手間のかかっている作業である。しかし人間の意識の基盤は言葉であると思うし、ここしばらく続いている粗雑粗野粗暴、とにかくこれがいい歳こいた大人の言うことかよと目と耳と頭を疑うような言葉遣いが暴風のように日々吹き荒れ飼い慣らされている状況において、こうした歩速が遅くて、あんまり前に進まなくて、足跡がしっかりつく過ごし方をしなければ、内面に蓄える言葉がどんどん枯れてしまう。味付けは濃くないが、よくよくこちらのことを考えているのだなという含みを持っている。分かりにくいので、私は武田砂鉄の本が好きである。カミソリの切れ味が、初日のそれがずっと続けばいいのだが、最初の三日目くらいまでと、それ以降と、ふたつしかないような気がする。モンハンの武器の切れ味ゲージを思い出す。朝トイレに座って、ものすごく気持ちよく、するりと一本躍り出たので、これを快便の教科書に載せようと思った。自分の肛門をしげしげと見たことはまだなく、ないわけではないのだが下半身麻酔で意識が朦朧としている中で胃カメラを突っ込まれていたその時は何も記憶に刷り込まれていないから、肛門内の有機的肉ヒダとうんこの表面的摩擦関係などについて思いを馳せるところまではいかず、水で流した。うんこの表面は思ったよりでこぼこしているのだが、あれは外に向かって飛び出すでこぼこではなくて、一定の容積下での膨張を強いられた結果の内面へ向かうでこぼこなので、おおよそ硬度に問題がなければつるとんたんと出てくるのだろう。大便が重力に従って順当に便器内の水面に落下した時、無用の水はねが起こらない、そんな便器を人類が発明したなら、少しだけ、ひとつだけだが世界はやさしくなる気がするのだ。